Mar. 6. 1985.
1985.3.6
山崎省三様
お手紙 有難とうございました。連載の原稿につきまして色々とごていねいなサゼッションをいたゞきながら、こゝのところ思いのほかせわしい毎日となってしまい、お便り書けぬまゝ日々が過ぎてしまい申訳ございませんでした。
エッセイ、いまだ なにか足が地に着いていない感じで、あれを書こう、これを書こうと思っているうちに、つい内容が上すべりしてしまいます。今迄、美術界の状況報告的な文を多く書いて来たことが習慣化してしまったのか、いざ自由なエッセイを、という今になって、文章があまりに説明的になってしまうことに我ながら少々唖然としています。僕のニューヨークでの生活は、特記するほどドラマティックではないのですから、私事を軸として書く以上、自分を傷付け、他人を傷付けながら、内側にのめり込まなければならないと思っています。でも、連載が終った時には、読者が「ニューヨーク」とは、どんな都市であるのか、「現代美術」とは いったい いかなる しろものなのか、といった事を、理解出来るようにしてみたいといった希望も強いのです。そのよくばりが、どうも 文を説明的にしてしまうようです。このエッセイを書いていて、一番書き表わしにくい点は、アメリカという国自体が、50-60年代と現在と、(豊かな国から荒廃へと)まるで別国であるかのような変りかたをしたこと、そして日本は 僕が渡米した頃から飛躍的な発展をとげたこと、そういった日米間の国状の変化が顕著化しているにもかゝわらず、事 美術に関しては、インターナショナルな美術界の動向の中で、日本の現代美術は、70年代前半までの頃より、はるかに後進的存在となってしまったということ。美術を軸として、日本とアメリカに関してふれようと思うと、二重、三重に過去と現在が屈折しているため、そういった状況の中での 私達のニューヨークでの生活、あるいは美術を通じての日本とアメリカの関係を理解してもらえるように表明しようとすると、実にむつかしいのです。つい、状況説明をしておかないと、本題に入れない、というような気持になってしまうのです。
小説新潮、無理なお願い事で申訳ございませんでした。早々に拝受いたし、週刊新潮とともに心より感謝いたしております。有難とうございました。女房は、ガブ、ガブ、ガブ、とワインをのみながら、お送りいたゞいた本を楽しませていたゞいております。僕は毎日のみますが女房は週に2~3回、そのかわり、のむ時の勢には いさゝかたじたじとさせられます。
山崎さん、今年は、是非ニューヨークへいらっしゃいませんか。そんなお話し山川さんともいたしましたが。朝までホテルでのんで、シカゴ行の飛行機に間に合わなかった時から、約20年、ニューヨークも変りました。ニューヨークは内側から見れば ひどい荒廃振りですが、国際的には、やはり、美術、音楽、その他の分野における、最先端の発表の場としての中心地であることを持続しており、その生命力の強さには驚かされます。
ニューヨークは、6月から9月までは夏期のシーズン・オフです。夏期は夏期なりのスケジュールが組まれていますが、素肌のニューヨークに触れるのはシーズン中です。今年、6月中旬以前——9月中旬以後でスケジュールおたてになりませんか? クリスマス前の12月は日本の年末と同じで さつばつとしていますので、さけた方が良いと思います。僕達のところにもゲストルーム?らしきものがありますので、よろしかったら、うちに とまっていたゞいても結構です。その方が安心してのめるかも。——
日本での作品発表、ヒューマン・ドキュメント展などあり、ごちゃごちゃしてだいぶ遅れましたが、今回きまりましたスケジュールどうりゆけば、来年早春、2月~3月にかけて、前回と同様、東京画廊、名古屋のユマニティ、廣島のスズカワ画廊、で個展を開くことになりました。前回展のように対角線シリーズにしばられずに(あれは画廊側の要求でもありましたが) どのくらい、新たな次元が展開出来るか、時代の大きな転換期であるだけに、頑張らなければと思っております。
来春までには、ニューヨークか、東京でお目に掛れますこと、心より楽しみにしております。出来ればニューヨークで。——
乱筆お許し下さいませ。
近藤竜男