Mar 17. 1981.

1981.3.17

山崎省三様
 お手紙有難とうございました。お忙しい中をお便り頂きながら、ご返事を書くのが大変に遅れてしまいました失礼 お許し下さいませ。
 此の度は、お母様がお亡くなりになられましたとのこと、さぞお力落しの事とお察しいたしております。心からお悔み申し上げます。
 ずっと前、長野の山の家にお伺いして帰りの汽車の中、四人で話しているうちに お母様の話となり、僕のお袋の話になり、—— 母親は、息子大事で、女房がいくら努力しても、息子一人が立派だと思っていると、—— のんでいる男性側に 少々風当たりが強かったひとこまがふと思い出されます。僕は母を東京に置きっぱなしの長いニューヨーク生活、川端先生が母と同い年なので、先生が年を取られ、「お母さん元気かね」といわれると辛い思いをします。
 帰国の折 お目に掛ってから もう二年近い月日が立ってしまったことになります。74年に南画廊で個展を開いて以来7年、僕の日本での「作品発表」という点では、結果的にはまったく何も実現しなかったのに、この期間 随分と色々な事が起っては過ぎ去ってゆきました。世代が入れ替り、年代が変り、ニューヨークでは 美術の国内指向といった姿勢が若い世代の作家に著しく、(といっても おそらく画廊、美術館等がそういうものをピック・アップし前面に押し出すという政策的意図が多分に作用しているのでしょうが)美術のインター・ナショナリズムや、理想主義的思考は またゝく間に倒壊し、自己中心的、あるいは自国中心的アートが前面におどり出し、それでいて全体的には救いようのない停滞感が感じられるのです。もっとも、アメリカと日本との美術状況で決定的に異なる点は、アメリカは既に60年代中に一応国際的なイニシアチブを獲得しているということゝ、ニューヨークは、好むと好まざるにかゝわらず、常に国際的市場のたゞ中にさらされているのに対し、日本は何時でも、鎖国することが出来るということでしょう。
 美術の末期的荒廃とでもいうのでしょうか。70年代前半「美術の危機」などゝ良くいわれたものですが、あの頃はまだ仕合わせな時代であったように思います。今は、どこか殺伐としていて、僕自身、出口なしの、イマジネーションの枯渇を寒々と肌身に感じます。芸術とは、芸術家とは何なんだろうかといったことを、あらためて考へざるを得ない時代であり、又、僕自身、そういう年齢に来てしまったようです。すでに 芸術家がアナキーに徹して生きるという贅沢が許されるほど この世は豊かではなく(経済的な意味ではなく) すみずみまで管理されすぎているように思えます。
 肝心の僕の個展ですが、来春、東京画廊でというところまでは話が決っております。昨年中 およそ内定はしていたのですが、何しろこの世界、本当に展覧会を開くまでは、はっきり決定といえない、といったような気持がいつの間にやら自分を支配しています。僕は石井さんの担当なので、高橋秀さんとほゞ同じスケジュールで廣島の鈴川画廊、名古屋のユマニテ・ギャラリー、東京の東京画廊ということで、82年の5月以前の会期となるようです。二月末東京画廊の山本さんが久しぶりにニューヨークにお見えになり、スタジオで色々お話しいたしました。ギューチャンも春に回顧的な展覧会を東京画廊で開くようで、中里さんも春、出来ればこの手紙で会期がお知らせ出来ればと思ったのですが、今日現在 まだ連絡がありませんので 決りましたら 又お知らせいたします。
 今度の個展は対角線のシリーズでやってほしいという画廊の希望で、新作のマチエールのある作品は展示しないことになると思います。今迄に中原さん、斉藤さん、画廊の松本さんと、色々な方がお見えになり色々のお話を伺いました。対角線シリーズによる個展に不満がないわけではありませんが、その決定には それなりの屈折した経過があったようです。現在の美術界、アメリカと日本の現代美術に対するシチュエーションがまったく異なり、ニューヨークでは、こゝ数年、作家が模索の状態をそのまゝ示すということは自然でしたが、日本では、個展の会場には はっきり答を示さなければならないのでしょう。何時の間にやら年を取って50歳近い年の作家ともなれば、完成した作品によって自己を明確に示し得る、ということも大切であり、完成した作品ということで対角線シリーズを選ぶという他者の客観的判断は間違っていないのだろうと思います。
 山本さんは、新作の弦をテーマとした(マチエールのある)作品に関心を持たれ、新作の方向を示す作品も必要と思ふので、この作品も送って下さいとのことで、最終的には、どのような展示になるか、—— 対角線の作品も新作となるのですが、新しい内容の仕事も送り、出来れば最新作を含む発表にしたいと思っています。こまかい内容が決まりましたら 又、御連絡いたします故、その折は、よろしくお願い申し上げます。日本での発表のことを考へていると「日本を向いている」といわれますが、向いて悪いことはないし、特に こゝ数年間、僕達の世代は、日本を向いて見ることも重要ではないかと思っています。志水さんは、78年1月のお手紙で、僕に「アメリカでの作家活動の現場をはっきりと積極的にすゝめる姿勢があってこそ貴方の原則がつらぬかれるわけです。その事でズタズタになってしまったとしても それは見事な生ざまであって、ニューヨークに生きた証言となるでしょう。そして作品が生きつゞけるならば・・・。」(原文のまゝ)と記して下さいました。僕は、このことは決して忘れません、僕はわりと我慢強い方ですから、ニューヨークで仕事を実らせます。
 ホイットニー・ミユジアムのビエンナーレ展では、50年代生れの作家も含まれ、あまりの世代の違い、国柄の違いからくる違和感は今迄になく強烈でした(展覧会の作品が強烈なのではありません)。美術のインターナショナリズムという夢が倒壊してしまったと思われる現在、ニューヨークにいて感じることは、使い古された言葉ではあっても「自己のアイデンティティー」を明確に示し得る作品でないかぎり勝てないな、というのが実感です。ホイットニー・ビエンナーレの原稿はうまく書けず困りました。
 新編成の芸術新潮、海外のインフォメーション欄 もう少しスペースが取れないものなのでしょうか、主要展の写眞3、4枚を掲載するとか、—— 六十年代末のアメリカ現代美術のような全盛期というのは、内容的には頂点を過ぎているもので、混沌の時代こそ、情報に意味があると思いますが、—— 郵便事故らしく二月号が着かず 三月号でその内容を見ることが出来ましたが、芸術の専門誌という性格は薄くなったように感じられます。
ニューヨークでの反響としては、内容的にも、本としての実感も前の方が良かったという意見が多いようです。なれということもあるでしょうし、自分達の事が掲載される可能性がある海外欄が大幅に減った事への不満もあるのでしょう。
 寒かったニューヨークも少しずゝ春めいて来ます。(今日は又 すごく寒いです)来年は帰国いたしますので今からお目に掛れるのを楽しみにいたしております。一度、うちにお泊りになる予定でニューヨークへいらっしゃいませんか? 物騒な街とはいえ、まだまだ文化面に関しては贅沢な所です。レイガンの予算削減政策は、アメリカの芸術界にそうとうの打撃をあたえることになるでしょうが。——
 では又、お便りいたします。
 末筆ながら御家族の皆様、芸新の皆様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ。
近藤竜男
 芸新編集部の方へ ニューヨーク、晝間の電話番号が、下記のように変りましたので、ニューヨーク時間AM8時-PM4時の時間の時は こちらの番号を先に掛けて見て下さい、とお伝へ下さい。
(212)ニューヨーク 924-6816
(212)ニューヨーク 924-6817
Gracie Inc. 121 W19thSt. NewYork. N.Y. 10011

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