July 4. 1982

1982.7.4

山崎省三様
 個展で帰国いたしました日本滞在中は 色々とお世話になりましたこと 心より御礼申し上げます。有難とうございました。
 お陰様で 8年振りの日本での作品発表、無事果すことが出来ました。又、帰国の折は カメラ、レンズ等の必要機器 お贈り戴き御礼の言葉もございません。大変に助かりました。野中さんが選んで下さいました 28mm 2.8のレンズは会場写眞に使いよく高価なものを本当にすみませんでした。野中さんにもくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ。
 今回の個展、本当はテクスチュアーのある作品で発表したかったのですが、画廊側は フラットな画面によるストライプ・シリーズで、ということでした。又 3つの画廊に対する作品割振りもあり、会場飾付など、自分が考へていたものとは可成異なる結果となってしまいました。ニューヨークで69年の「アンティ・イリュージョン展」などに代表される 会場展示空間そのものを作品化する意識は、今も僕の中に強いのですが、これをあまり主張すると、飾付当時、どうも具合が悪いような雰囲気で、(それは当日ばかりではなかったし) 今回はおれました。
 志水さんの時の南画廊での個展と、今回の東京画廊での個展は、画廊側の姿勢が正反対な面が多く、やりにくい点もあった反面、志水さんが日本美術界で挫折せざるを得なかった点がわかるような気もしました。
 志水さんは「どうぞ自由におやりなさい」といって あの廣い会場を作家に明け渡す感じで、作品の価額も作家まかせ、ビジネスとしての作品の売買には 商人的な積極性はほとんど示しませんでした。国際化への理想主義のもと、南画廊の国内作家(外国人有名作家でない日本人作家)の中には、現実として 作品が動かないことへの不満が色々なかたちでうっ積していたようで、志水さんが亡くなられた後、身近な人から、そんな話を良くきゝました。しかし、作家を信じ、美術界で理が勝つことを信じ、クリエーティブな純粋美術の自立を信じた志水さんです。亡くなられてからまだ数年しか過ぎない今から振り返って見ても、奇跡としか思えないような、「我が城」を築き守っておられたのであって、一回の個展しか持てなかった僕ですが、あの展覧会(74年の)を開けたことを誇りにしています。
 東京画廊は、山本さんが飾付けまで自分で仕切らなければ気がすまないような、もう一つの城であり、国内(あるいは東洋圏)に視線の焦点がおかれているという点で、外国にいる僕には、日本の画商の姿勢、あるいは日本美術界の構造がいくらか見えたような気がしました。日本の美術界、特にビジネスの上では 欧米の国際的マーケットとオープンで しのぎをけずって爭うということはあまりメリットがないというか、—— 別のいい方をすれば、いまだに鎖国が可能な不思議な国です。アメリカの現代美術も大変ナショナリズムが強いというか、ドメスティックですが、フランス、イタリア、ドイツの動向はストレートにニューヨークに入り(又は出てゆき)、おたがいが同等にさらされるのですから、国際的であらざるを得ないのでしょう。
 日本では 志水さんの時代と今が違うように、ニューヨークもインターナショナルであった60年代と 現在はまったく姿勢が逆になりました。たゞアメリカの美術界の場合ドメスティックになる理由が、国内的な要素を武器としなければヨーロッパと戦えないということが日本美術界の状況とことなるように思います。
 ところで今シーズン、エモーショナルな表現主義的具象作家が、ファッション的な流行現象を示していますが、アメリカのシュナーベル、サール、ドイツのバセリット、ペンク、イタリアのキヤ、クッキーなど、それぞれ国内的要素が強いとはいえ、「人物が登場する表現主義的な具象」という共通点があり、各国合同で一つのムーブメントを作り出しているというのが特徴です。
 シュナーベル、サール、に対しアメリカ国内で批判的な声が高いということの裏には、過去4、5年にわたってホイットニー美術館を始め、ポーラ・クーパー、ホーリー・ソロモン、ウィラード、といった画廊等がアメリカの国内色の強い作家をバック・アップして来たのに対し、成り上がり的なメアリー・ブーンにレオ・キャステリイがジョイントし、ソナベンドと共に(フランスの画廊、キャステリイの前夫人、同ビルの2階と3階、メアリー・ブーンは1階) ヨーロッパ勢と共同戦線的な姿勢を示したことに対して、アメリカ国内派はわだかまりを感じるのではないでしょうか。(イタリア作家にとっては スペローネ・ギャラリーのニューヨーク ブランチであるスペローネ・ウエストウォーター・フィッシャー・ギャラリーがソーホーにある)
 メアリー・ブーン/キャステリイ組がシュナーベルとサールを駒として 前記の国内作家群をポンと飛びこえて国際的話題の座についたということは、無名性の時代、スターのない時代といゝながら、実際にはスターを欲しがったのです。欧米での現代美術界は戦爭ですから、廣い目で見れば、メアリー・ブーン/キャステリイ組が アメリカ勢二人ぐらいで後の駒が続かない状態のまゝ ヨーロッパ勢(ヨーロッパ側にしても同じ状況なのでしょうが)と連体で、スターを生み出したということは、アメリカ勢としては、ヨーロッパへ一歩譲歩したことになるのではないでしょうか。かつて60年代——アメリカ美術界がヨーロッパを攻勢していた時代、ソナベンド/キャステリイの連体はアメリカに有利に作用したと思いますが、今回はアメリカ美術界の弱体化につながるのでは? 僕の勝手な想像です。それにしても、このエモーショナルな人物を主題とした具象作家群の急速な台頭は、実質的には さほど重要なムーブメントとは思えず、作品自体には、それほど新味を感じません。それでも ニューヨークの20代の作家達はほとんどこの手の作品に熱中していますから、僕が歳を取って新時代にそぐわないのかも知れません。西武美術館でこの手の展覧会をするようですが、それも良いのではないかと思います。安井賞展と良い比較になりますし。・・・ 日本の美術界は抽象の分野より具象作家のぬきさしならないマンネリズム的停滞の方により問題があるように思えますので。
 めまぐるしく世相が変るなかで、カール・アンドレは自分の作品を凍結させてしまったかのように、なんら発展も見せないかわりに 一歩の譲歩も見せず、ポーラ・クーパー・ギャラリーに今回展示されている新作は、鉄と銅の正方形板を敷詰めた旧作とまったく変らぬパターンの作品です。ステラの、すでに息切れを感じさせる変貌と、アンドレの居直り的不変なら、僕はアンドレの方をとりたく思います。(個人的には彼は嫌いですが) 答は後、10年~15年掛るでしょうが。そういった中で、日本人である自分がどう生きてゆくか。日本は イタリア、ドイツ、フランス、カナダ、のように、自国美術の足掛かりをニューヨークにしっかり持っている国ではないので、日本人作家は、いずれにしても、こゝでは孤立無縁であることにかわりはありません。
 米、独、伊、連体の美術サークルや、ナショナリズムの強いアメリカ美術界の中に組込まれようと思わなくても、ニューヨークという、各国の尖端がさらけ出されている地点で、自分は自分で守り、持続して行けると、—— ちょっと淋しいような、自信のようなものが出来て来ました。ストレスが強いから酒ばかりよくのみますが、体の方がつぶれてしまっては、これも又負けです。
 帰国の折、お話いたしました本のこと、色々考へながら、今日まで、まだ手がつかずに3ヶ月が過ぎてしまいました。来年3月にはもう50歳になりますし、出来れば務の方をやめて自分の仕事に集中してゆきたいと思っておりますが出来るかどうか。84年中には本、是非完成させたいと心に決めております。本の仕事に入り、内容が具体化してまいりましたら、そのつど、御連絡いたします。今迄本というのは書いたことがありませんので、何卒よろしく御指導下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。最近めっきり記憶が悪くなって来ましたので、早く、書かないと、20年前のことは忘れてしまいそうです。
 一つお願いごとがございますが、長年お送りいたゞいておりました週刊新潮が、帰米後はまいりません。日本国内の世相を知る上では、やはり一読いたしたく、身勝手なお願いごとで恐縮でございますが、週刊誌一部、お送りいたゞけませんでしょうか? 今迄からいえば、週刊新潮は斎藤様にお願いすべきなのかも知れませんが、今日お手紙書きましたが、最近はお送りするレコードもなく、どうしても御無沙汰気味で、斎藤様には ちょっとお願いごと書きにくいのです。誠に勝手な言い分で申訳ございませんが、お願い出来ますでしょうか?
 今日は建国記念日で久し振りの連休です。まるで日本の梅雨を思わせるような日が続き、天候異変を思わせますが、間もなくニューヨーク特有の猛暑の到来となることでしょう。
 パリの岡部あおみさんがニューヨークに見えていると電話があり、今週中にお会いします。
 末筆ながら、斎藤様、芸術新潮の皆様、草野さん、お忙しい中を個展にいらして戴きながら 御無沙汰してしまい心苦しく思っております。くれぐれもよろしくお伝へ下さいませ。
 では暑さに向い、御自愛下さいますよう、皆様の御健勝、御発展を心より祈り申し上げます。
 日本滞在中、多々御世話になりましたこと重ねて御礼申し上げます。有難とうございました。
近藤竜男

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