11月19日(1964年)
1964.11.19
山崎省三様
コーコラン ギャラリーの「Contemporary Japanese Painting」の写眞をお送りいたします。
前田さんの近作や磯辺さんの作品などは、まだ見ていませんでしたので期待していたのですが、少々がっかりしました。マディガン氏の選考と言ふ事ですが 会場の雰囲気からはかなりデコラティフな感じを受けます。それが会場のディスプレのせいか、個々の作品のせいか、或いはマディガン氏の好みの結果か、と言ふ事は、いちがいに結論は出せないと思いますが、かく作家ごとに壁の色を変へるディスプレと言ふのはどうかと思いました。黒、赤、グレー、黄、白等と変る壁は、たゞキレイと言ふだけで裸の作品を見る事を否定しています。久野さんの作品などは、眞白な壁に掛なければ金属の効果はまったく無くなってしまふと思います。つまらなく見えたのも そう言ふ事がわざわいしているのでしょう。もっともそのため得をしている作家もありますが・・・ 磯辺さんの作品は僕はがっかりしました。彼の作品は、もちろんパップアートでは無いでしょうが、でも、パップアートとオプティック イリュージョンの作品を見なれた目には、中途半端なものに見え よぶんなものがやに気になりました。アメリカの作家が一直線に作品を作るのに対して、そのよぶんなものが、こちらで見ると非常にデコラチーフな印象をあたえました。オルテンバークや、リヒテンシュテインの最初の個展を見た時のあの馬鹿々々しさと言ふか、バカにされたような、それでいてけっこうショックを受けた、あゝいうどこかで心臓をつっつくような作品は見あたりませんでした。皆なんとなく優等生じみて、ひ弱な印象を受けるのは、どうしてでしょうか?
今、アンドレ エミリック ギャラリーでやっているケネス ノーランドの個展や、その前にやったモーリス ルイスの展覧会など、見るものにいやおうなしにショックをあたえます。よぶんなものゝまったくない、わき道からは絶対にその作品に入って行けない。—— そう言ふ作品が少なくともアメリカでは一番感動的です。と同時にやはり、僕にはそこに自分とは本質的に異質なものをも感じます。
作品の良し悪しを何を基準にして判断するかと言ふ事について、色々な疑問を感じます。日本で見ればコーコランギャラリーのこれらの作品はもっと良く見えるのかも知れませんし、ノーランドやルイスの作品を東京で見た場合に ニューヨークで僕が感動したようなものを、はたして感じられるかと言ふ事。日本で見たら、あるいはそれらは逆につまらなく見えるのではないか? ——少なくとも非常に理解しにくいと思います。
先日、ニューヨークで「日本昆虫記」を見ましたが あの映画なども日本の東京と言ふ地点で見るべき映画のような気がします。あの都会的(東京的?)発想の拒否は、日本の特殊性と、その状況がわかっていないと全部わからなくなってしまふのではないかと思いました。僕は、東京にいた時の自分にひきもどった目で見ました。そうしなければならないかったところに抵抗を感じましたし、それでもうめつくせない多くの部分に現在の自分の姿勢を感じ、少々、いらだゝしい気分にもなりました。あれを見て、良い映画だったとほめるアメリカ人を僕は、信用出来ません。
今、グッゲンハイムでカルダーの個展をやっています。まだ行っていませんが、後便で御送りいたします。カネギーの國際展も見たいと思っていますが、ピッツバーグまで行かなければなりませんので、行けるかどうかわかりません。
川端さんがニューヨークへこられ、日本の様子などを聞きました。
では又、お手紙いたします。先日、芸術新潮10月11月号受取りました。どうも有難うございました。敬具
近藤竜男