近藤竜男へのことば
近藤竜男へのことば
近藤竜男—静かな対話、ニューヨークで紡がれた芸術世界
佐藤恭子
キュレーター
近藤作品との出会い
私が近藤の作品と直接「出会った」のは、2018年にキュレーターとして手がけた展覧会『A Colossal World: Japanese Artists and New York, 19​50s–Present』でした。この展覧会は、1998年にニューヨークで創設されたアートスペース WhiteBox が、20周年を記念して行った企画シリーズ「Exodus」の第1弾として開催されたものです。ニューヨークで活躍してきた移民アーティストを特集するこのシリーズにおいて、日本展は、第二次世界大戦後の密接な日米関係から必然的に多くの作家を取り上げるべき歴史的意義をもつ企画でした。そこで古くは1906年に渡米し、1910年にニューヨークへ移り、1948年にホイットニー美術館が初めて企画した個展を実現した国吉康雄(1889-1953)を起点に、全55人を紹介する大規模展示として構成することにしました。1 近藤はその作家の一人でご存命でしたが、残念なことに2001年に日本へ帰国されていたのでお会いすることは叶いませんでした。
展示した近藤の《Plan for Painting》(1974, セリグラフ, 50.8×66 cm|20×26 inches, Roland Gibson Collection 1986.1)は、ニューヨーク州立大学ポツダム校(State University of New York at Potsdam)にある美術館(The Art Museum)の ギブソンギャラリー・コレクション(Gibson Gallery Collection) から借用した作品でした。画面上部には、青を基調としたグラデーションの中に斜めの対角線で引かれた3本の線が配置され、彼の代表的シリーズが示されています。その下部には、描くための設計図と説明文がレイアウトされ、一枚の画面に感性と構造が併置される形式になっています。美術評論家の中原祐介(1931–2011)の言葉を借りれば、上部は「自分の感情の投影」、下部は「知性の操作」と解釈でき、その二つが一つの画面の中で相互に響き合う構造を成しています。2
近藤竜男は1933年に東京で生まれ、その創作人生の大半を1961年から2001年にかけてニューヨークで過ごしました。1958年に先に渡米していた川端実(1911–2001)を追い、1961年にニューヨークへ移住します。記録を通してその軌跡をたどると、彼がアメリカ美術界と真正面から向き合いながらも、自らの内面世界を揺るぎなく貫き続けた、きわめて稀有な表現者であることが浮かび上がってきます。
ニューヨークに根ざした感性
近藤がアメリカを目指した理由について、彼自身は次のように記しています。「私のアメリカ指向の根底には、貧しかった戦後の最中、見ても、聴いても、触れても、食べても、めくるめくほどにフレッシュであったメイド・イン・USAへのさもしいまでの願望があった」。3
戦後日本の閉塞感のなかで、アメリカ文化は彼にとって、圧倒的に新鮮で刺激に満ちた世界に映ったのでしょう。おそらくアメリカのアートも同様に、フレッシュでリッチなものとして彼の目に映っていたはずです。近藤がニューヨークに移住した1961年は、アメリカのアート界が非常にダイナミックに変化していた時期でした。抽象表現主義の黄金期を経て、ポップアート、ミニマリズム、カラーフィールド、オプアートなどが次々と台頭し始めた活発な時代です。
また、近藤にとって絵画制作やオブジェ制作だけが表現ではありませんでした。渡米初期から、執筆活動や音楽批評に至るまで、複数の創作行為がすべて等価であったことは、彼のユニークな立ち位置を象徴しています。財団代表の森豪男は、「絵とオブジェの制作と執筆活動は全く同じ価値を持っていた」と記しており、近藤が芸術を単なる視覚的成果物としてではなく、時間や思考との対話として捉えていたことがうかがえます。4
音楽への深い関心も、彼の表現を理解するうえで欠かせません。幼少期からクラシック音楽に親しみ、ジャズへの憧れも抱いた彼は、その思いをしばしば批評という形で表現しました。5 常に変貌し続けるニューヨークという都市で、最新のアートと、そして音楽をも含む多義の文化に触れながら、近藤は日々自身の感性を研ぎ澄ませていったのです。
制作哲学と芸術の構造:スローミュージックと還元・構成主義
彼が到達した代表的な表現である、対角線を用いたシリーズの制作理念を語るうえで、美術史家・キュレーター・批評家のエドワード・フライ(1935−1992)が1981年に記した「スローミュージックのように描く」という表現は、核心に迫るものと言えるでしょう。6 ここには、絵画を単なる空間表現としてではなく、時間や音楽との関係性の中で捉える視点が含まれています。
具体的には、彼の表現は還元主義(reductionism)と構成主義(structuralism)を軸に構築されていました。画面に不要な要素を削ぎ落とし、色彩・形・比率といった最も基本的な要素を厳選して組み立てる手法です。1970年半ばから末にかけて彼は対角線を帯状に描く構図(diagonal band)を繰り返し用いました。背景をほぼ単一色で覆いながら微細に色調を変化させ、帯部分を背景とは異なる色で構成することで、視覚に動きと時間の流れを生み出したのです。7
この構造は、観る者に帯を目で追わせる体験を提供し、「出現」と「漸次的な消滅」が視覚の中で交錯する魔術的な効果を生みます。まさに、絵画が静けさのなかに時間を内包し、観る者を忍耐と静寂の対話へと誘う仕掛けになっているのです。フライは近藤の探究を「高度な精神と存在の状態への志向」と読み取り、彼の絵画を単なる視覚表現としてではなく、人間存在の根源を探る瞑想的営みとして評価しています。8
さらにフライは、近藤の作品を音楽、特にバッハの構造やフーガに例える視点を示しました。対角線や帯、色の転調、質感(テクスチャー)の導入が、視覚上で「旋律」とハーモニーを作り出すと捉えたのです。9 後年、質感を強めた作品群においては、まさに「視覚版のフーガ的旋律」が成立しており、これは視覚的時間と構造性を高度に統合した非常に特異な表現であるとフライは考えていました。
日米美術界への遺産
近藤竜男の制作は、長年にわたる変遷と熟成の過程を経て展開しました。1950年代や渡米直後の1960年代初期の作品には、抽象表現主義の影響が色濃く見られ、単色画面やインパスト(盛り上げ)を伴う力強いストロークが特徴的でした。しかし、制作年を重ねるにつれ、彼の関心は「構造」「時間」「質感」といった抽象的概念の探求へと深化していきます。1970年代以降は、複数パネルによる画面構成、対角線を軸にした構図、テクスチャー(素材感)の導入など、視覚的要素を厳選し再構成する手法が顕著になりました。これらの変化は、絵画空間に「時間」と「リズム」を内包させる実験であり、観る者に音楽的な時間の流れを体感させる役割を果たしています。10
実際、近藤の作品に見られる微細な色の変化やテクスチャーの差異は、光の反射や視覚的揺らぎを生み、観る者に能動的な知覚の旅を提供します。つまり、彼の絵画は単なる「鑑賞対象」に留まらず、観る者の時間感覚と知覚を同時に動員し、視覚体験を拡張する装置となっているのです。
このように、ニューヨークという国際都市で活動しながらも、近藤は流行や商業主義に流されず、自らの信念に基づく静かな探究を続けました。財団も彼のことを「目まぐるしく変化する怒涛のようなアートシーンに押し流されず、自分の芸術を貫き通した」と評しています。11 この姿勢は、アート市場や批評の潮流とは一線を画す存在であったことを意味します。多くのアーティストが商業ギャラリーやメジャーな批評家に迎合する中で、近藤は時間、構造、静寂という価値を選び、それを作品として体現しました。その意味で、彼はアメリカ美術界における「もう一つの美学(alternative aesthetic)」として存在し続けたといえるでしょう。
また、彼の活動は日米をつなぐ文化的架け橋としても重要でした。日本での展覧会や寄稿、手紙を通じて、アメリカで見聞した美術的思考や生活観を日本に伝え、表現の多面的な可能性を示しました。絵画、著作、オブジェ制作という多様な表現を長年にわたり追求した近藤は、一時代を生き、世界を目撃し表現した日本人アーティストの一人として、他界した今も次世代に残すべき遺産として価値を持っています。
2025年12月ニューヨーク
註
- 1https://americanart.si.edu/blog/eye-level/2015/09/426/yasuo-kuniyoshi-teacher
- 2「近藤竜男ニューヨーク⇔東京 1955~2001」展図録、練馬区立美術館、2002年
- 3「ニューヨーク現代美術 1960-1988」近藤竜男、新潮社、1988年、p.28
- 4–9,11mandtkondoartfoundation.or.jp
- 10https://mandtkondoartfoundation.or.jp/archive/?cat=work
(さとう きょうこ)
NHKグループのプロデューサーを経て、2002年からニューヨークを拠点に活動するキュレーター。
代表的な仕事に朝日新聞と開催した「メトロポリタン美術館古代エジプト展女王と女神」(2014年、東京都美術館、神戸市博物館)、日韓国交正常化50周年記念「Fermented Souls」(2015年、Waterfall Gallery、国連基金後援)、屋外大型映像展「ライトイヤー14:ジャパン・パレード」(2016年、3サーチ、DUMBO Brooklyn橋桁、在ニューヨーク日本国総領事館後援)がある。2018年に前衛展示で知られるニューヨークのホワイトボックスにアジア部門を創設し、2021年までそのディレクターを務める。その間、企画した展示に、ワイズマン美術館巡回展「Jizi: Journey of the Spirit」(2018年、ホワイトボックス、グッゲンハイム美術館主任キュレーターのアレクサンドラ・モンロー司会のディスカッション)、国吉康雄・岡田謙三・草間彌生・オノヨーコ・久保田成子・篠原有司男・近藤竜男・杉本博司・千住博・村上隆・大岩オスカール、松山智一ら55人を展示した「大きな世界を求めて:日本人アーティストとニューヨーク 1950年代から現在」(2018年、ホワイトボックス、石橋財団特別助成、国際交流基金とNYC Cultural Affairs助成、デーヴィッド・ズウィルナー、ペースギャラリーなど協力)、「コシノヒロコ:バウハウスの香り」(2018年、ホワイトボックス、メトロポリタン美術館コスチューム・インスティチュート協力、ファッション工科大学講演)などがある。2023年、日本美術をニューヨークのアート専門家としての目線から世界に紹介する米マガジンJapan Contemporariesを創刊。ロードアイランド・スクールオブデザイン(RISD) の修了プログラムのビジティング・クリティック (2017、2021) など批評・審査活動も多数。
近藤竜男へのことば
美術家の言葉を読み、作品を考える
玉井貴子
早稲田大学會津八一記念博物館 招聘研究員
1961年に渡米し、主にアメリカで、そして日本で活動した画家・近藤竜男氏は多くの著述を残した。その著作は制作者の心持ちや制作者の視点による同時代美術の理解について多くを物語っており、作家研究のみならず美術史的な観点から貴重な史的資料となっている。とはいえ、氏の著作の数は多く、全貌を捉えることや著述を参照しながら実作を考察することは容易ではない。試論でできることには限りがあるが、近藤氏の主な著作を通読し、作品を眺めて浮かび上がってきた画家・近藤竜男の興味深い一側面を書き記して、近藤氏への言葉としたい。
近藤氏の著作でまず手に取ったのは、1988年に刊行された『ニューヨーク現代美術 1960~1988』である。本書の冒頭は、「なぜニューヨークを選ばれたのですか?」という問いかけから始まる。これは、1973年に京都国立近代美術館で開催された「アメリカの日本人作家」展を機にNHKが行ったインタビューの質問である。問われた近藤氏は、ヨーロッパの抽象画に対してアメリカの現代美術が新鮮であったことやジャズの演奏をなまで聞きたかったこと、アメリカ現代美術の実体が掴めていなかったことなどを挙げて回答としたのであった1。しかしながら続けて、敗戦後の物資の乏しい日本に進駐軍がもたらしたアメリカ文化や製品への憧れが根底にあったことにも言及する。近藤氏はこの憧れを「さもしい」と形容しているが2、自らも冷静に見つめる客観的態度に惹きつけられた読者は多かったのではないだろうか。
近藤氏がニューヨークに到着したのは1961年、氏いわく「抽象表現主義末期」であった3。翌年にはポップ・アートが台頭し、ニューヨーク美術界の主戦場の顔ぶれは激変する。その状況を身をもって体験した氏は興味深いことに、最先端の美術動向となったポップ・アートに注視しつつも、その影に隠れた抽象表現主義に傾倒していくのである。「あの時ニューヨークにおいて抽象表現主義にアプローチしたことは、私にとっては掛け替えのない体験なのである。抽象表現主義なしには、ジョーンズも、ポップ・アートも、ミニマル・アートもあろうはずがないではないか4」。この時流に逆行するような姿勢は印象深く、近藤氏の慎重かつ着実な制作の軌跡を表すかのようである。氏は目まぐるしく変化する美術動向を冷静に観察し、咀嚼できるものを咀嚼して独自の表現確立へと進んでいったように思われるからである。
『ニューヨーク現代美術 1960~1988』が1980年代から過去を振り返っているのに対して、M&T KONDO美術財団のホームページに公開されている、近藤氏が『芸術新潮』の山崎省三氏へ宛てた膨大な数の書簡は、執筆当時の近藤氏の思考や感情をそのままに伝えている。これらの書簡は『芸術新潮』の「ワールドスナップ」をはじめとした記事の原稿と同じ紙に記されたり、原稿に同封されたりしたようで、ニューヨーク美術界の商業主義や計略、そこでのアーティストの身のこなし、自身の制作などについて率直な見解が綴られている。山崎氏宛ての書簡のなかで筆者が注目したのは1969年~70年の書簡における、1969年のホイットニー美術館の「アンチ・イリュージョン:手続き/素材(Anti-illusion: procedures/materials)」展への言及である。選出された作家が展覧会場となる美術館で制作を行った同展について近藤氏は、作家たちの創作行為はハプニングに近く、「アクト(行為)」に主体を賭ける時代が到来するのかと展覧会評で予見する一方で5、山崎氏宛ての書簡においては「イマージュを否定するしないにかゝわらづ、否応なしにイマージュが作品を支える要素となっている」と述べている6。アンチ・イリュージョン(反イリュージョン)と銘打った展覧会についての言説で、「イマージュ」が肯定的な意味で使われているのは興味深い。
近藤氏が「イマージュ」をどのように理解していたかについては探究の余地はあろう。しかしながら展覧会評において、エヴァ・ヘスやラファエル・フェラーの制作について「イマージュということを否定するしないにかかわらず、作品は許された行為に対しての情感を新たに持ちはじめる7」と述べており、このテキスト前半部分が先の山崎氏に宛てた書簡と類似している点に鑑みると、「イマージュ」は「情感」と関連し捉えられていたと考えられそうである。同様にリチャード・セラの制作についても、「心地よく感性を刺激」し、「作家の意図と関係あるなしにかかわらず、「美しい作品」へと変形していた8」とあり、ここでも「感性」や「美しい」といった情緒的な用語が使われていることに注目できる。
ところで、このような近藤氏の発言に目をとめたとき頭をよぎるのは、氏の同時期の制作である。氏は1960年代半ばには立体作品(ハンギング・ストラクチャー)、続く60年代後半には絵画と立体を組み合わせた作品(マユダマ・シリーズ)の制作を試みていたものの、60年代末には再び絵画制作へと立ち返っているのである。そして、階調的な変化のある単色の色面と画面を走る対角線のみによる絵画「対角線シリーズ」の先駆けともいえる《Blue 69-3》9を制作したのが、「アンチ・イリュージョン」展と同年の1969年であったのは偶然だろうか。「立体を手がけたのち、カンヴァスへ戻るときにはかなりの抵抗があった」と述べた近藤氏にとって10、絵画制作へ戻ることへの確信につながったもののひとつが、「アンチ・イリュージョン」展についての洞察であったように思われる。先に引用した「作品は許された行為に対しての情感を新たに持ちはじめる」という言葉にもある通り、作家の「行為」が情感(イマージュ)を生むという、同展を通して得た認識は、描く「行為に主体を賭ける」ようにと近藤氏を促したのではなだろうか11。
「対角線シリーズ」誕生から数年後に、作品が成立する瞬間に思いを巡らして近藤氏はその瞬間を、「論理や明確な表現意図といった言葉や意志の届く地点を、「ふと乗り越えた瞬間」にできたもの」と発言している11。また晩年、「対角線シリーズ」について「画面は拮抗するバランスと移行の場でありつづけている」と述べている12。画家の「行為」により創造された絵画が作家の意図を超えたものを獲得することこそが、このシリーズで目指されていたように思われる。
註
- 1近藤竜男『ニューヨーク現代美術 1960~1988』新潮社、1988年、26頁。
- 2近藤、註1前掲書、27~28頁。
- 3近藤、註1前掲書、28頁。
- 4近藤、註1前掲書、30頁。
- 5近藤竜男「アンチ・イリュージョン/手続きと素材」『美術手帖』1969年10月号、84、95頁。
- 6May 30. 1969 | 手紙 | 近藤竜男デジタルアーカイヴ | 近藤竜男 M&T KONDO美術財団 | Tatsuo KONDO - M&T KONDO ART FOUNDATION(2024年10月31日最終閲覧)。また1970年6月3日の書簡においても、「アンティ イリュージョン展の場合もアンティではなく、まさにイリュージョンにすり替わってしまった」との記述がある。Jun 3 1970 | 手紙 | 近藤竜男デジタルアーカイヴ | 近藤竜男 M&T KONDO美術財団 | Tatsuo KONDO - M&T KONDO ART FOUNDATION(2024年10月31日最終閲覧)。
- 7近藤、註5前掲書、93頁。
- 8近藤、註5前掲書、93頁。
- 9横山勝彦「近藤竜男の「対角線シリーズ」について」『金沢美術工芸大学 紀要』第61号、2017年、155頁。
- 10近藤竜男「埋められない空白のなかで」『美術手帖』1971年7月号、154頁。
- 11近藤、註10前掲書、155頁。
- 12鷹見明彦「画家たちの絵画史 近藤竜男 システムと筆触の振れ幅」『美術手帖』2003年2月号、162頁。
主要参考文献
- 近藤竜男から山崎省三に宛てた書簡(1961~1990年)、近藤竜男 M&T KONDO美術財団ホームページ、手紙 | 近藤竜男デジタルアーカイヴ | 近藤竜男 M&T KONDO美術財団 | Tatsuo KONDO - M&T KONDO ART FOUNDATION
- 近藤竜男「アンチ・イリュージョン/手続きと素材」『美術手帖』1969年10月号、82-95頁。
- 近藤竜男「埋められない空白のなかで」『美術手帖』1971年7月号、152-155頁。
- 「特集 発言´72=創造の原点」『みづゑ』1972年1月号、14-17頁。
- 近藤竜男「近況 ひと仕事終えた“白紙の状態”から」『美術手帖』1974年5月号、24-25頁。
- 早見堯「反構成的「構成」への姿勢」『美術手帖』1982年4月号、146-151頁。
- 近藤竜男『ニューヨーク現代美術 1960~1988』新潮社、1988年。
- 『近藤竜男―ニューヨーク⇔東京 1955~2001』(展覧会カタログ)、練馬区立美術館、2002年。
- 鷹見明彦「画家たちの絵画史 近藤竜男 システムと筆触の振れ幅」『美術手帖』2003年2月号、159-162頁。
- 『近藤竜男』(展覧会カタログ)、ギャルリー東京ユマニテ、2010年。
- 横山勝彦「近藤竜男の「対角線シリーズ」について」『金沢美術工芸大学 紀要』第61号、2017年、153-162頁。
(たまい たかこ)
早稲田大学會津八一記念博物館学芸員、助手を経て現職に至る。
早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。専門はアメリカ美術史。
近藤竜男へのことば
近藤竜男の奏でた音楽
竹上友梨
府中市美術館学芸員(近世美術)
美術館に就職した年、偶然に「コンドウタツオについて文章を書きませんか」と誘われました。私は「コンドウタツオ」のことはもとより、近現代美術、それも海外のことなんて全く無知でしたから、はじめ少しためらいましたが、自由に書いてくれれば良いとのお言葉を受けて挑戦してみることを決めました。ひどく単純な人間だと自分でも思います。そんな経緯ですので、ここでは難しいことは論じずに、彼の作品を見て感じたことを思うままに書いていこうと思います。
近藤竜男(1933–2019)は東京芸術大学油絵科を卒業した後、1961年に渡米、ニューヨークを拠点として活動した美術家です。画学校に通いながら制作を続け、ギャラリーで展示を行うほか、イサム・ノグチのアシスタントを務めたり、また日本でも「在外日本作家展 ヨーロッパとアメリカ」(東京国立近代美術館、1965)で在外作家の代表の一人として紹介されるなど、アメリカと日本の両国でその活躍が知られる作家でした。彼の作品は、日本で読売アンデパンダン展などに出品していた第I期(〜1961年)、渡米後、抽象表現主義を研究した第II期(1960年代前半)、作品の方向性を模索した第Ⅲ期(1960年代後半)を経て、近藤の代表作である「対角線シリーズ」の第Ⅳ期(1969年~)へと遷移しています。第Ⅰ期の作品には、矢印や機械の一部のようなとげとげした形を描いたり、割れたレコード盤のようなモチーフを描くなど、攻撃性が強くみられるものが多く、近藤が、戦後の抽象絵画に囲まれて制作していた様子がうかがえます。渡米後すぐの頃、近藤は自身の著作で回顧しているように、自分で体験しないことにはその後に展開する現代美術を理解することはできないと、当時すでに一昔前のものとされていたアメリカ抽象表現主義を研究し、その影響を大いに受けた作品を制作しています。
こうして、第I期から第II期で日本とアメリカの現代美術の様式を学んだ近藤は、知識と経験の蓄積が十分に満ちたのか、新しく自身の表現を模索するようになります。小さなカンヴァスを繋げる作品や「マユダマ・シリーズ」など、絵画の範囲を試すようなこの時期の作品が、私にとって大変面白く感じられて、気に入りました。
ところで、近藤竜男が書いた手紙がアーカイブされていて、作品以外の、もっと私的な部分で彼の人となりを知ることができるのは、私たちにとって幸いと言えるでしょう。彼の手紙には音楽の話題が頻繁に登場していて、ニューヨークの現地で聞くジャズの演奏が素晴らしかった、また、誰々という指揮者の何時いつの舞台を収録したレコードが素晴らしい、云々、といったマニアックな内容となっています。音楽の中でも特にジャズは、ニューヨーク時代を回顧した著書の中でも個別に章を設けるほど、近藤にとって重要なものだったようです。ジャズという音楽では、あるメロディーのテーマや和声(コード)進行をもとにして、それぞれの奏者がアドリブで演奏することで、即興に曲を作ってゆきます。なにか決まった楽譜の通りに弾くのではなく、スウィングしたりアウフタクトを入れたり、あるいはわざと拍やコードから外れた音を出すことで、様々な「ズレ」を生じさせ、その緩急によって聴く者の体と心を動かす音楽になるのです。同時に曲の全体像を見ると、それぞれの音は散らばりながらもギリギリのところで分裂せず、小さなズレは大きな振動に集合していって、最終的にひとつのエネルギーのうねりとなります。この個々のズレが集まってひと塊になるようなエネルギーの躍動が、近藤竜男の作品を見ている間にも感じられたのです。
任意のキャンバスにそれぞれ独立したイメージを描き、後でそれらを寄せ集めて一つの作品にする、というスタイルは、ジャズにおいて個々のプレイヤーが奏でるソロが並立しながら互いに干渉して、寄せ集まることで一つの曲が完成するのと重なります。色と形で満ちた矩形が組み合わさって大きな画面を作る様は、ビッグバンドの音圧を想起させますし、モノクロの画面を横切って小さいキャンバスが並べられる作品は、月面のように静かな空間で情感たっぷりに奏でられるジャズピアノの音のようです。ひょうたん型の彫刻を吊るした「Hanging Sculpture」のシリーズは、その唐突さ、驚きに、フリージャズの不協和音を思い出さずにはいられませんでした。
小学生が美術館に見学に来た時、私は時々「絵画から聞こえる音はあるかな?」「音楽のように絵を聴いてみよう」と勧めています。それは、視覚で感受した作品の要素を他の感覚に置き換えて説明することで、はじめに見つけた視覚的要素をより詳しく分析し、考察することに挑戦するためです。ただ、作品の中には、こうした作為がなくとも、ただ見るだけで、自然とリズムやメロディーが湧きあがってくるものもあります。私は、視覚ではない他の感覚をも刺激する作品を生み出した作家として、近藤竜男を認識しました。また反対に、彼自身が持つ鋭敏な感覚を(これは絵画に対しても音楽に対しても発揮されたものでしたが)、絵画として表出することを選んだ結果生まれたのが近藤竜男という画家だったとも言えるでしょう。
参考文献
- 展覧会図録「ねりまの美術2002 近藤竜男 ニューヨーク⇔東京 1955~2001」練馬区立美術館(2002)
- 近藤竜男『ニューヨーク現代美術1960-1988』新潮社(1988)
- 展覧会図録「在外日本作家展 ヨーロッパとアメリカ」国立近代美術館(1965)
- M&T KONDO 美術財団HP
(たけがみ ゆり)