Oct 29. 1976.
1976.10.29
山崎省三様
シーズンが始まったと思ったら、もう年の暮が忍び寄って来て、あまり代り映えもせぬまゝに過ぎ去ってしまふ年月の早さを、焦燥感と言ふよりは、あきらめにちかい感じで見送ってしまう毎日です。長いこと御無沙汰してしまい 本当に申訳ございません。
先日、うちのが帰国の折は、すっかり御馳走になり、その上馬場も一緒だったそうで なんとも恐縮です。本当に有難うございました。
馬場君といえば、当時、メキシコから、かなり、バテ気味でニューヨーク入りしましたが、ニューヨークは、柄にもなく気に入った様子、ミユジアム オブ モダンアートを見て来て、「人には言うなよ、第一ラウンドでノックアウト寸前なんだ」などと言っていましたが、ヨーロッパへ行けば それなりに大きな感動をあじわったようで、旅の人達は、さっさと世界を見渡してしまうのに、ニューヨークで生活しはじめてしまった僕達は、ヨーロッパへは何時でも行けると思う半面、アメリカからヨーロッパへ行って見ると云うことが、日本からアメリカへ来た時のような大袈裟な気分になりそうで、ついつい腰が重くなってしまいます。馬場君がニューヨークで、こゝで食えれば、なんとなく なんとなくなって居坐ってしまふと云うのも良くわかると、その気にもなりかねないふぜいでしたが、インターナショナルなニューヨーク、即ち、無国籍的なのであって、常日頃の、いっそ蒸発してしまいたいといったような我々の潜在的願望を、ふと刺激する所であるのかも知れません。古川さんなどは、その典型で、ニューヨーク日本橋画廊での個展出席のためのニューヨーク滞在が アット云う間の13年、子供だった一人娘は既に嫁ぎ、不安にまみれた「父帰る」であったようです。
話が前後してしまいましたが、古川さんは、僕が日本滞在中、原稿を、お願いした人で、僕の先輩です。今度、一時帰国、15日よりフマ ギャラリーで個展を開きます。ニューヨークと東京では、個展の時の画廊や、出版社などに対する手順がまったく違い、そうかといって、案外教えてくれる人というのはいないもので、僕とで同じでしたが、どうして良いかと戸惑う時が多いのではないかと思います。もし、お会いいたゞけるような機会がございましたら、何か、御助言戴ければ大変に助かることゝ思います。誠に恐れ入りますが、よろしくお願い申し上げます。
秋のニューヨーク、カルダーの回顧展が200年祭の最後を飾るものとして賑やかに開かれています。大作の多いアメリカの作家といえども 天井の高いホイットニー ミユジアム 4階の大会場を使いこなす作家となるとなかなかいないものですが、モニュメンタルな作品とプレイの要素をもつカルダーの種々の動的作品は、グッゲンハイムの時もそうでしたが、会場を不思議な動的空間にかえてしまいます。近作のグラフィックやタピストリーの作品は、昔、サーカス・シリーズを始め、あんなに気が利いて素晴しい”線”を描いたり、作ったり出来た作家が、どうしてこんなになっちゃうのだろうとうんざりさせられますが、今や、ニューヨークの画廊のウインドーは、量産されたカルダーのグラフィック作品がバチャバチャと氾濫しています。アメリカの生んだ世界的作家ということで手放しでほめたゝえられるカルダーは、アメリカにはろくに住まず、フランス語ばかり使うとも言われますが、そこには、アメリカの根深いヨーロッパ コンプレックスのようなものも感じられる替りに、作品を見ているとなる程 彼はアメリカの作家だなと思えて来ます。カルダーは アメリカ美術の発祥地、フィラデルフィアで名のしれた彫刻家の家系の三代目で、そういう意味から見れば、まるでジューシ ソサエティーとでもいった感じの ニューヨークを中心としたアメリカ現代美術界と照らし合せて、成程となっとくのゆくことです。
今シーズン明けの個展では、ステラの個展とは別の意味で、荒川君の個展が充実しているように思えます。ステラは、アルミニュームによる雲型定規のような型を くり抜いたレリーフ状の作品で、その上に絵の具、クレヨン等によるアクション風のストロークをなぐり描かれた、かなりラジカルなものです。この変貌振りは もうしばらく静観しないことには判断のしようもありませんが、この辺をさぐれば、70年後半のアメリカ現代作家の内情 あるいは裏面を見ることが出来るように思えます。荒川君が本当の意味でアメリカ美術界にみとめられ始めたのは、というよりは、アメリカがみとめざるを得なくなったのは、こゝ数年のことでしょう。彼の才能をみとめても受け入れようとしない姿勢が強かったという意味です。60年代のアメリカは、アメリカ現代美術自体をインターナショナルな地点にもって行こうとした時代であり、70年代後半は、より国内的な内情へと視点を向けているようですが、いずれにしても 何時の時代も、大変 ナショナリステックであることにかわりはなく、ニューヨークのマーケット自体が、インターナショナルであることゝは又、別の問題です。中川君や、吉村さん(二三生さん)のように 克明に物を表わす仕事は、アメリカにおいても、日本人であること自体にメリットがありますが、まともな抽象作品や、コンセプチュアルなものにおいては、日本人であることは、まず、マイナスにしか、さようしません。日本は、現代美術に対する売買の流動が、ほとんどなく、マーケットとして成り立たないことから、作家だけが孤立してしまわざるをえません。イタリアの作家でも、ドイツの作家でも、現代作家と、ディーラーの循環の上で、ニューヨークのマーケット(いわゆる画廊の個展)がなりたっているのですから。その点で荒川君や、河原温さんは、逆境の中で よく、あそこまで頑張ったと、その点は敬服します。河原温さんは、いまだニューヨークでは 荒川君程滲透していませんが、ドッセルドルフの温さんの画廊がニューヨークへ進出していることによって(ドッセルドルフのコンラド・フィッシャーと、トリノのスピローネが、アメリカの画廊と一緒になって、スピローネ・ウエストウォーター・フィッシャーという共同体の画廊を作った) 今年、始めてニューヨークで個展を開きました。荒川君は、奥さんが言語の専門家で 彼の作品の中の言葉のトリックは、奥さんに負うところが多いそうです。(ミユジアム・オブ・モダンアートでのリトグラフ展の時は、彼もそのことを公にし、美術館のプレス用のインフォメーションや ニューヨーク タイムスの評などにも その事が明記されています) ニューヨーク画壇が ともかくも 一人前の作家として認めざるを得なくなるところまで食込んだ彼は、ヨーロッパでの成功を背景に 言葉に掛けては抜群の才能を持つ奥さんとの共同作戰による大変な努力があったように思えます。
人の事ばかり書いてしまいましたが、僕は無論 荒川君のようには出来ないし、温さんのようにも出来ませんが、自分は自分の方法をみつけることしかありません。この国で、たゞ名を売り出すこと、画廊を取こと、を第一の目標とするのであれば、それは、それなりの方法もあるでしょうが、相手の求めるものを作るというのではなく、あくまで自分のもので相手に「うん」と言わせようとするのは、時間の掛ることです。もう、こゝまで来てしまったのだから、今更相手に妥協することによって、けちな栄誉を得て見ても意味がないと思っています。とは言っても40過ぎて3年、いつまでたっても、女房を働かせて その甲斐の無さも ようやく切々と身にしみて、やりきれないところです。昔の人は、絵描を道楽者ときめつけましたが、昔も今も ちっとも変ってはいない様で、中途半端では、しょせん もっともらしい顔をした道楽者でしかないのかもしれません。なにしろ ニューヨークの壁は厚いので、正面から攻めるのは骨がおれますが、イマジネーションがかれはてるまでの残り時間も それほど有るわけではなし、正面から攻める姿勢を崩さずに制作を続けて行くことしか、僕には方法がありません。
最近のニューヨーク、いいかげんな画廊が増え過ぎて、どこでも良いというのなら、個展を開くことは簡單になりましたが、それ故に、やたらと増えた日本人作家の「やれば良い的」な作品発表と、一方、数年前より出来たウィークエンドの日本語テレビ、その中にローカルニュースと言うのがあって、日本人作家の展覧会も良く扱うのですが、これが、荒川、河原などの個展は取上げようはずもなく、ジャパン・アート・アソシエーションのグループや、新妻さん一派が中心といったあんばいで、ニューヨーク滞住の一般の人々は、そこで取上げられた人々が大先生と思うのも無理からぬことです。ニューヨークも、そろそろ 村的日本人社会が出来はじめ、話にきく、パリのそれに しだいに近ずきつゝあるのだろうなといった気がします。
話は飛びますが、昨年の末、西武ミユジアムの紀ノ国さんがニューヨークへ見え、西武での個展の話がありました。その後、ミユジアムから来たオフィシャルな文面によると、それは “Japanese Artists playing active parts in New York”といったシリーズ展を企画してのことだったようですが、最終的には、企画の内容自体がいまだに定まらないようです。春 ニューヨークを訪れた岡田隆彦さんの話、南画廊の志水さんからの手紙、最近、宇佐美圭司君がくれた手紙でも、僕の展覧会をやることだけは、決っているようなニュアンスですが、かといって 一番大切な日取りやら、会場空間等については、なんら具体性がありません。岡田氏を通して希望の会期の問合せなどもあり、一応来年の春頃を希望の時期としました。メインに来る大きな展覧会のサイドへ来る展覧会だろうと思いますが、それでも かなりの壁面があるようですし、志水さんも賛成して下さるので 実現出来るものなら良い展覧会にしたいとずっと制作しています。とはいっても 肝心の西武からの具体的なオフィシャル レターがいまだに来ませんので 今のところ この件については誰にも話しておらず(古川さん達にも)、僕にとっても 半分は雲を掴むような話です。デパート内のミユジアムである以上、宣伝第一でしょうから、僕の展覧会などは、後廻しになるでしょうし、スタッフのめいめい個人には、それ程の発言権もないのでしょうから、画廊のオーナーと作家とが個展の期日、内容をきめるというようなわけには行かないようです。かと言って、だまっていては、こういう企画は、いつまでたっても具体化しないのでしょうから、中心になる作品 5、6点が完成したところで スライドを同封して さいそくして見ようと思っています。もし、この展覧会が実現すれば、その折は、短い期間ですが一時帰国出来ると思います。
4、5年前までは、夜ともなれば、眞暗闇に近かったこの近辺も、今や、向いに出来たバーからの奇声嬌声が午前3時、あいかわらず賑やかに聞えて来るこの頃です。奇妙な発展のしかたをするSoho地区、もうこれ以上華やぐのは、ごめんこうむりたいところですが、或る日突然、ビレージのように、すたれる日が来るかも知れません。
近藤竜男