10月26日(1966年)

1966.10.26

山崎様
 近代美術館の日本展の事 (9 Evenings: Theatre and Engineering)の事など、色々と考へさせられる問題があると思いますが、今日は、ちょっと時間がありませんのでこの次に書きます。
 4、5日前 下のレストラン(僕の働いているところ)から火災があり、たいした事はなかったのですが、後しまつやら、原因調査やらとめんどくさい事です。アトリエと續いているので作品が全部焼けてしまうのではないかと心配でしたが、だいたい無事で助かりました。
 日本展、会場に入って、一見した限りでは、そんなに悪くないのですが、時間がたつにしたがって、なにか舞台裏が見えて来ると言った感じがして来ます。体裁のとゝのった この旨さと言ふのは、あるいは反感を感じさせるのではないでしょうか? 「良く見たらにせものだった」と言ったような。つまらなくて理解に苦しむと言ふほうがまだましだと言ふ気がします。僕自身でも、これらの中の期待していた作品に対して、ふとダマサレタような気持がするものがありました。これは、始めての体験ですが。(僕達はどうしても日本をひいきめに見るのですが)。頭が先に行っていると言ふか、知識を技術の力によって、作品にしたと言ったような感じです。あるいはこちらが づれているのかも知れません。
 ふと、こんな事を思い出しました。日本で学生展と言ふのがあって、中学や高校の生徒の作品を見ていると、ときどき馬鹿にうまいのがあって、その作者がその技術を意識しているのがありありとわかるもの、岡本太郎なり鶴岡政男とかにそっくりで、なかなかよく出来ている作品。そういう作品を見る時、その作者の裏側がみえすいて、ふと反感のようなものを感じさせる、そんな気持がニューヨークの批評する立場の人にあるのではないか。フランスがあって、アメリカがそれに対してガムシャラに出て来て、さて、日本を見る時は高校生ぐらいにしか見ない。だから似たようなもので 小器用にまとまったものを作られると、やたらと腹が立つのではないでしょうか? これはまったくの想像ですが。もう少し考へて見ないと良くわかりませんが、かつて、彼らは、ポロックをひっさげて、同じようにアメリカを中学生とも思っていなかったフランスを戸惑わせたのだから。
 タダスキーさんは、来月そうそう日本へ行くようです。
 日本展では入って一番最初に川島さんの作品が掛っており、ドロシー ミラーがなかなかのお気に入りのようです。展覧会の中では彼の作品は良く見えます。荒川修作がやはり良いです。彼の理論の方は別として、「物」を作る事においては、魔術師的な才能があるように思います。やはり、彼の強味は、人を魅惑させるものを作る才能なのでしょう。
 では又、ゆっくりお手紙いたします。レコードを送りすると言って、まだ送っていません。近い内にお送りいたします。
近藤竜男

手紙, 10月26日(1966年), 1966.10.26手紙, 10月26日(1966年), 1966.10.26手紙, 10月26日(1966年), 1966.10.26手紙, 10月26日(1966年), 1966.10.26
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