Kondo Tatsuo, Blue Diagonal Stripe
  • Blue Diagonal Stripe
  • 1969年
  • アクリル・カンヴァス
  • 152×224cm

私達について

本財団の役割は、多くの人々に近藤竜男の芸術活動に興味を持って頂くことです。
近藤は1961年から2001年にわたってニューヨークを拠点に絵を描きました。同時にニューヨーク アートシーンの重要な出来事を日本に発信し続けました。彼にとって、絵とオブジェの制作と執筆活動は全く同じ価値を持つていました。更に彼のもう一つの関心事は音楽です。父親が聴いていたクラシック音楽を子供の時から耳にしていた彼の音楽に対する評論は的確です。そしてジャズへの絶対的憧憬。ニューヨーク、成功者達もいる、そして溝の中に住みながらも空の星を見つめている人達も。
マンハッタンに住み、目まぐるしく変化する怒涛のようなアートシーンに押し流されずに自分の芸術を貫き通した近藤竜男。一人でも多くの人々に、近藤竜男の芸術活動に興味を持って頂くこと、更には現代の美術の発展に寄与する事が私達の役割です。
そして、近藤が創造した作品、著作、写真など、表現した全てのものの著作権の管理を行っております。——代表理事 森豪男


近藤竜男
Tatsuo Kondo

1973年 ニューヨークのスタジオにて 撮影:Thomas Haar

1973年 ニューヨークのスタジオにて 撮影:Thomas Haar

スローミュージックのように描く:近藤竜男の新作群について

エドワード・F・フライ

近藤竜男の芸術は、意図するものの芸術的純粋さと達成してきたものの一貫性の模範である。十年以上にわたってこの画家は、一つのゴールを追求してきた、そしてそれは目前まできたように見えるにもかかわらず、その到達点自体を変容させ、新たに遥かな地平に再び姿を現すゴールを追って進んできたのだ。

しかしこのゴールとは何か、そしてそのゴールは、いかなる人間社会の中で、自己再生してやまないその課題を芸術家と一般の人々の双方に強いてきたのか? ゴールとは、少なくとも私の見方では、高度な精神と存在の状態であり、感性と知性との瞑想的融合であるとするのがいちばん相応しいだろう。その状態にあっては、感性、知性どちらが優るというのではなく、互いが互いを増幅し合う。それは芸術の、そしてもちろん人生の、最も非凡で高邁な目的である。それは私たちの現在の世界ではほとんど見ることができないだろうが、ヴェネチア派の巨匠たちに、セザンヌに、そしてルネサンスのヨーロッパや、伝統的な東洋の建築と庭園の統合複合体の中に深く存在している。

近藤のこのゴール追求は何もないところから生まれてきたものではない。1950年代以降の進化する絵画状況を十分に理解しながら行われてきたのだ。それ故に絵画に対する彼のアプローチは還元主義であり構成主義のそれであり、色彩、形、モジュール比率以外の全ての要素のカンヴァスからの消去を基とする。これら土台をなす三要素を用いて、彼は各要素のヴァリエーションと組み合わせを注意深く操作して、絵画の美の可能性の探究を続けた。こうして、1970年代半ばから末にかけての彼の一連の絵画は、シンプルな正方形や長方形の形を、コーナーからコーナーへ、一本又は複数の帯を走らせた対角線で分割するというものだった。カンヴァスの彩色された画面全体は単一の色調で覆われ、作家はそれに知覚出来ない程の変化をおこさせるため、少しずつ、少しずつ、コーナーからコーナーへ、サイドからサイドへと、色調と彩度で注意深く転調させる。この同じ転調は斜めの帯自体の配色にも使用されるのだが、それはカンヴァス画面の配色の変化とは逆の流れであり、その結果、観る者の目が帯の斜めに沿って動くとき、帯たちは静止している画面との関係の中でほとんど魔術的な出現と漸次的な消滅を果たす。

このアプローチの成果は二つ。先ず、彼は視覚性と感覚性の拡大を得ることを達成した。これは近代絵画の中ではあったとしても稀なことで、ヨゼフ・アルバースのバウハウス由来の実験絵画もそうではあるのだが、それらは近藤の作品とは表面的には類似性を有しながらもその効果としては著しく異なるだけでなく、より限られた意図、究極的には教育者的意図を持つという点でも違っている。むしろヴェラスケスにある、あるいはヴェラスケスの偉大なる後継者マネとその1860年代の彼の絵画にある、例えば《オランピア》や《死せる闘牛士》の中の、限りなく微妙な灰色や他の色調の方に目を向けるべきだろう。

二つ目の成果、あるいは帰結は、近藤が絵画言語の基礎的要素を強化する中で、彼がその言語を活性化し、新しく、かつ爽快なほどに非独断的な手段によって我々の注意を引いたということである。

これを土台として、近藤は最近三年間の作品を通し、変わらぬゴールに到達すべくさらに微妙さを極め、かつ効果的で挑戦的な方法を開拓して前進を続けてきた。同時に、彼は色と構造とのより複雑な相互関係を構築する方法を発見した。それはある一つの作品で、しばしば三枚ないし五枚、あるいはもっと多くのキャンヴァスを使うのだ。そして一つのキャンヴァスにとらわれず複数のパネルという構成全体を使って広がる、色相と構造の変化群を作り出すのである。また、あの斜めの帯の効果を補うべく、実に長い径を持つ曲線領域を導入するようにもなった。

これらの傑出した作品群は、それらが具現する豊かで微妙で複雑な視覚体験を伴ってますます音楽に比肩するようになる、とりわけバッハとその後継者たちのフーガの奏功と。しかし近藤の絵画は、この体験を視覚的に行うものであり、そこは音楽と違っていつでも我々の目には継続的に体験できるものである。その意味において、彼は一つの芸術作品の中で、音楽の時間次元の中で発生する和声的発展と複雑性ばかりか、絵画の現前性、開示性、同時性をも統合するのである。したがって我々は彼の作品群を「見る音楽」と呼ぶこともできる。それらを総体として観るとき、まるで音楽を聴くようにゆっくりした時間連続の中で味わうこともできるから。だからこそ、彼のアートを十分に理解するには、忍耐と静寂と、そして精神と感覚の両方の関与が求められるのである。

近藤の直近の作品はまさに彼のベストだ。最新の絵で彼は彼の視覚的経験の複雑さの上に、さらに別の、視覚版のフーガ的メロディを加えている。この新しいメロディは、いわば絵画的言語のテクスチャーである。近藤はこのメロディを新作に使用することによって、視覚を高揚し、絵画で可能な、再生させた視覚体験の持続の限界点をかつてない高みへと引き上げた。

テクスチャーを得て、近藤は絵画的言語の基礎的要素を新たにもう一つ取り入れたわけである。それはテクスチャーの持つ反射性、色彩と反射との相互作用だ。そうして、テクスチャーにテクスチャーを並置させ、あるいはテクスチャーを付与したものに平坦な色彩の転調を対置させて、彼は、これまでの作品が与えてきたものよりもさらにもっと微妙で、また同時により強力な視覚体験の水準を修得できるか、理解できるかと、私たちに挑んでいるのである。

結果はあたかもバッハが、長調の音階で進めてきたフーガの構造にふと短調のキーを導入し、それがもたらした不協和音を、これまで夢にも思わなかった、斬新でより高尚なハーモニーへと進行させたような効果をもたらすのだ。近藤のこれら最新の作品群は、絵画の奇跡だ。培われた経験の限りない複雑さと豊かさが融合し、現代美術において比類ない、視覚の完全なる統合へと昇華されるのである。

フロリダ州タンパ/ニューヨークにて 1981年
(翻訳:北丸雄二 2022年)

エドワード・F・フライ / プリンストン大学で教鞭を執り、カーネギーメロン大学美術史の教授を務め、キュビズムに関する本を出版。1967~1971年グッゲンハイム美術館副学芸員、ハンス ハーケの展覧会準備中、館長と理事が芸術の政治的内容に反対、開催1か月前の1971年4月に中止、フライ氏は中止に対する怒りを公に表明した後解任。その後ハーバードやイェール大学で教える。1987年 ドクメンタ共同ディレクター。1989年のMoMAの展覧会「ピカソとブラック: キュビズムの先駆者」の企画でウイリアム ルービン、ピエール ダイクスと協力。Contemporary Japanese Art: Fifth Japan Art Festival(1970年12月3日~1971年1月24日/グッゲンハイム美術館)のキュレターを務め準備のため来日、多くの作家や評論家等に会う。1992年4月17日心臓発作で死亡。56歳。

Painting as Slow Music: the New Works of Tatsuo Kondo

By Edward F. Fry

The art of Tatsuo Kondo is exemplary for its purity of intention and consistency of achievement. For more than a decade this painter has pursued a goal which, as he seems to draw ever closer to its absolute realization nevertheless transforms itself and reappears on a new and distant horizon.

But what is this goal, and within what human universe has it exerted its self-renewing challenge to both the artist and the public at large? The goal, it would seem to this observer at least, is a higher state of mind and being that could best be described as the contemplative fusion of the senses with the intellect, in which neither predominates but each intensifies the other. It is a most unusual and distinguished purpose for art, and indeed for life. It is to be found almost never in our present world, but it is profoundly present in the Venetian old masters, in Cézanne, and in the unified complexes of buildings and gardens in Renaissance Europe and the traditional Orient.

Kondo’s pursuit of this goal has not taken place in a void, but with his full awareness of the conditions of advanced painting since the 1950’s. His approach to painting has thus been reductive and structuralist, and is based on his elimination from his canvases of all elements except those of color, shape, and modular proportion.

With these fundamental elements he then has proceeded to explore the pictorial and esthetic possibilities that result from the careful manipulation of the variations and combinations of each element. Thus, in a series of paintings he made during the middle and later 1970’s, he used simple square or rectangular formats bisected by one or more diagonal bands running from corner to corner. The entire pictorial field of the canvas was then covered with a single hue, which the artist carefully modulated from corner to corner and from side to side so as to make an imperceptible shift in tonality and intensity. These same modulations were then used in the coloration of the diagonal bands, but in a sequence opposite to that of the overall pictorial field. The result was the almost magical appearance and gradual disappearance of the bands, in relation to the rest of the painting, as the observer’s eye followed the bands along their diagonals.

The result of this approach was twofold. First, he achieved an escalation of sensibility and visual attention that is with few if any equals in modern painting, including the Bauhaus-derived experiments of Albers, which bear superficial similarities with Kondo’s work but which differ markedly not only in their effects but also in their more limited and ultimately pedagogical intentions. One must rather turn to the infinitely subtle use of greys and other tonalities in Velasquez, or to Velasquez’s great follower Manet and his paintings of the 1860’s, such as Olympia or Dead Toreador, for a true predecessor.

The second result, or consequence, was that in his intensification of the fundamental elements of the language of painting, Kondo revitalized that language and brought it to our attention by means that were both new and refreshingly undogmatic.

From this foundation, Kondo has proceeded in the works of the last three years to develop ever more subtle and effective, as well as challenging, methods to arrive at the same goal. At the same time he has discovered ways to build more complex interrelationships of color and structure that often involve as many as three to five or more separate canvases for a given work, and to create shifts of hue and structure that are not limited to a single canvas but extend throughout a multi-paneled composition. He has also complemented his use of diagonal bands with the introduction of sections of a curve with a very long radius.

These remarkable works, with the rich, subtle and complex visual experiences that they embody, have become more and more comparable to music, particularly to the fugal achievements of Bach and his followers. But Kondo’s paintings offer this experience visually and thus, unlike music, continuously available for our eyes to re-experience. In this sense he unites within a single work of art not only the harmonic development and complexity that occurs within the temporal dimension of music, but also the presentness, openness and simultaneity of painting. We may therefore call his works visual music, since we see them slowly if we are to see them in their wholeness. It is for this reason that the full understanding of his art requires patience, quietness, and the engagement of both the mind and the senses.

Kondo’s most recent work is certainly his best, for in his newest paintings he has added the visual equivalent of yet another fugal melody to the complexities of his visual experience. This new melody, or variant of pictorial language, is texture. Kondo uses it to raise yet higher than before the threshold of revivified visual experience available to painting. For with texture Kondo has incorporated another fundamental element of the language of painting, which is reflectivity and its interaction with color. Thus when Kondo juxtaposes texture against texture, or textured against flat modulations of color, he challenges us to master and to comprehend a level of visual experience that is even more subtle, yet at the same time more powerful, than his own previous works had offered. The result is as if Bach were to introduce a minor key into a fugal structure that was otherwise in a major scale, and then to resolve the resulting dissonance into a new, higher, and previously undreamt of harmony. These most recent works of Kondo are a miracle of painting, in which the maximum of complexity and richness of experience are fused into a unity of vision that is unsurpassed in contemporary art.

Tampa/New York 1981


近藤竜男からのメッセージ

1. ガゴシアンのセラの展示

森豪男様

Apr. 29, 1993

お電話にFAX有り難とうございました。
今春のニューヨークは、なかなかパッと暖かくならなくて、いまだセーターかジャンパーがはなせません。
ソーホーのギャラリーも不況を反映してか、心引かれるような発表はあまり見あたりませんが、うちの正面のガゴシアン・ギャラリーでは、先週までリチャード・セラのそそり立つ4枚の湾曲した鉄板のあいだを通り抜けるという巨大なエンバイラメンタルな立体作品による個展が開かれていました(この種の鉄の作品は、ドイツでなければ作れないそうで、はるばるここまで運んで来たそうです)
この個展ではギャラリーの前面を全部あけていましたので、うちの2階からもまる見えで、いつも人だかりがして、搬入・搬出には大型トレーラーが4台で一週間掛り、いやでも毎日見えてしまうので、こちらがくたびれてしまいました。
今春はホイットニー・ビエンナーレが開かれていますが、今迄ホイットニー・ビエンナーレ展に欠けていた−あるいは避けていたと批判されて来た問題を一気に挽回しようという意気込みか? (ディレクターが変わりました)マイノリティーのアーティスト、女性アーティストが多くをしめ、2/3以上が無名作家で、50年代、60年代生まれ。人種・性・差別、同性愛、エイズ危機、帝国主義と貧困といったような社会問題を取り上げたポリティカル色の強い作品が主軸となって、絵画などは数作品だけ、といった激変振りです。
靴墨と一緒にCDが一枚入っていますが、ブラームスのアルト・ラプソディーをちょっと聴きたくてディスカウント店で買ったものですが(プラスチック・ボックスの裏に穴があいている)メンデルスゾーンの4番のシンフォニー(イタリア)が快活で、一仕事おえた後などに聴くと気持ちが良いと思います。
日本は今日から連休ですね。春の良い季節に素晴らしいアイディアを生んでください。

近藤竜男 美代子

近藤さんと美代子さんから僕宛に送られた手紙です。この中に近藤さんが行った日本の美術界への貢献の一例を見ることができます。それは、ニューヨークを拠点とした芸術活動が先鋭先端であった時代に、近藤さんが日本に伝えてくれたニューヨーク現代美術の動向です。この手紙のように単純な私信であっても、アートのちょっとしたエピソードを記すところに、近藤さんの習慣の一端を垣間見るように思います。
近藤さんが日本送りの原稿を執筆している時の姿は壮絶でした。両袖引出付のオークの背の高い机を前に、足乗せ付の回転椅子に座り、片手で頭を抱えながら意味不明の独り言、あるいはうめき声を発しながら格闘していました。日課のギャラリー巡りで作品に対する自分の評価は形成されている、愛機ニコンによる写真撮影も済んでいる。その上で、芸術好きのニューヨーカーでも「頭が痛くなるので決して読まない」という人もいるニューヨーク タイムズの美術評をはじめ、出来る限り多くの批評や参考資料や辞書を机に積んで読み漁り、評論の中の引用箇所もまた読み解いていくのです。
近藤さんにとって、このようにしてニューヨーク現代美術を読み解くことは、側から見ると一種の苦行のようにも見えるのですが、しかし、彼にとっては悦楽であったに違いないと思います。それは、日本からの評論家や作家達が近藤さんのSOHOのアトリエを訪ねた時、近藤さんが嬉しそうに質問に対して答える姿を見るとそう確信するのでした。確信を持って作品を評論する上で欠かせないのは、リアルタイムでその渦中に身を投じていることでしょう。近藤さんは更に、自分も芸術家であり、その臨場感はことさらに強烈なものであったことでしょう。近藤さんのニューヨーク現代美術に関する執筆は、ニコンレンズによる精緻な記録、絵の具と筆によるキャンバスへの思考の定着と同じく、たった今、自分も含むマンハッタンで発生している芸術を文字で焼き付けることだったのかもしれません。それは自分の制作活動を相対視することでもあったのでしょう。
この手紙の中には、音楽への記述が入っています、これはぼくへのレクチャーですが、近藤作品を考察する上で音楽は欠かせないものです。近藤さんのジャズとクラシック好きは尋常ではありません。音楽が流れ始めると近藤さんはたちどころに作曲家と曲名、オーケストラと指揮者、ソリスト、年代、聞きどころなどを教えてくれました。ニューヨークに行く度にぼくが受けたレクチャーでした。
ぼくは、近藤作品を音楽との関係で評論する批評家が現れるのではないかと感じています。カンディンスキーとシエーンベルグの例のように、近藤作品と音楽は切り離せないものであると思うからです。

森豪男 M&T KONDO美術財団 代表理事 武蔵野美術大学名誉教授

近藤竜男からのメッセージ

2. Emily Lowe Competition 受賞

1961年初夏、ニューヨークに到着した28才の近藤はブルックリンに住んだ。尊敬してやまない川端実先生がブルックリン ハイツ274 Henry St.に住んでいたからである。横須賀美術館「生誕100年 川端実展 東京——ニューヨーク」の図録に寄せたエッセーに近藤は記している、「1961年に私は川端先生の一人息子の義久くんを伴って渡米、川端家は一家団欒、私はしばらく川端家に居候の後2軒隣の(272)をアトリエ兼住居とし、女房を呼び寄せやっと自立」と。
近藤はブルックリンを気に入っていた。すでに近藤がソーホーに住んでいた時、ブルックリン アカデミー オブ ミュージックのオペラハウスは美しいですね、古い宝石のようでした、と話しかけると、「ニューヨークはブルックリンから始まったと言えるんだ、古い歴史を持っているから歴史ある美しい建物が多いんだ、ブルックリンハイツなどもそうだよ、ブルックリンは今でこそ危険な街のように言われるが、ぼくは好きだ」。これを聞いた時、初めて住む異国の地のブルックリンは、歴史の蓄積が醸し出す懐かしさの雰囲気で、近藤の心と体を包んだに違いないと思った。BAMのオペラハウスの椅子に座った瞬間、ぼくはこの劇場に抱かれた、と感じたように。
近藤は、ニュー スクール、アート スチューデンツ リーグに在籍した。ニュー スクールには62年2月迄、アート スチューデンツ リーグには62年9月から64年4月迄。
そしてニューヨーク到着の2年後、1963年の秋、彼は一つのチャンスをものにする。第15回 エミリー ロウ コンペティションの受賞である。このコンペティションは、支援に値する芸術家のためのプロジェクトであり、主催はThe Joe and Emily Lowe財団。エミリー ロウ(1902-1966)、彼女自身も芸術家である。エントリー出来るのはニューヨーク地域で制作する25歳以上の芸術家、提出作品は油絵一点、最小サイズは約30×40インチ、最大サイズは約40×50インチ、授賞者は10名、賞金は各750ドル、そして作品は展覧会で発表される。
ニューヨーク ヘラルド トリビューン紙のクリティカル ガイドが、969 Madison Ave.のEggleston Galleryで開催された展覧会について記している。受賞した7名の抽象作家、3名の具象作家の名前を挙げ、最も前途有望な作家はTatsuo Kondoであると言い、彼の作品はオールオーバー ブルーの画面にいくつかのミステリアスな月のクレーター状のものがインパスト技法によって盛り上げられている、と。この絵の行方は不明である。制作年から判断すると、今回掲載したBlue Imageシリーズの一枚と思われる。
1961年にニューヨークに到着した近藤竜男は、1963年にこの地での活躍の第一歩を踏み出した。

森豪男 M&T KONDO美術財団 代表理事 武蔵野美術大学名誉教授

近藤竜男からのメッセージ

3. Nihonbashi Gallery 1964年

近藤のニューヨークにおける最初の展覧会はNihonbashi Galleryで開かれた。東京、日本橋画廊のニューヨークブランチ、1964年2月4日から29日、住所はマジソンアベニュー 822。ここから北へ13ブロックでメトロポリタン美術館正面入口、南に10ブロック下るとセントラルパーク南端の59丁目である。いわゆるアップタウンの一流ギャラリーが点在する地区。ディレクターは Paul K. Watabe 氏。メディアに掲載した広報は次のように記す。
1963年のエミリーロウコンペテション受賞者の一人であるTatsuo Kondoの絵画展。これらの抽象絵画は、急激に頭角を現した彼の若々しく勢いのある創作意欲、即ち、力強い楽器によって制作された。彼は並外れた色彩の才能を持っている。その色彩は “Red Image” にも見るように品格にあふれて美しい。色彩のインタープレイによる単色画面は見事に制御され、大画面を堅固に支えている。そして力強いストロークと巧みな筆致が、色彩の調べを至美の高みに配置する。

絵画と音楽を記述する基本的な言葉は同一なので言い切ることは出来ないが、Paul K. Watabe氏は近藤の絵の本質には音楽がある、と見ていたのではないだろうか。近藤作品記述の単語数は60、ヘッドラインを繋いだような切り詰めた文章を読み返していくと、彼はこの短文に近藤の絵と音楽との関係、秘密の言葉を忍ばせていたのではないかと感じる。Tatsuo Kondoの作品は「絵の音楽」であると。

森豪男 M&T KONDO美術財団 代表理事 武蔵野美術大学名誉教授

Red Image

会場に立つ近藤竜男

近藤竜男からのメッセージ

4. Kondo is an Abstract-Expressionist

世に出ようとするアーチストであれば必ず一度は記録されると思われるART NEWSのReviews and previews: New names this monthの頁、1964年2月号は日本橋画廊の近藤の作品についても取り上げております。編集者の一人であるJames H. Beck氏は次のように記しました。

1961年からこの国で活動している近藤竜男、この日本人アーチストは力強い取組を行なっている、単一色調による奔放自由の伸びやかな画面に、インパストにて分厚く絵具を盛り上げて興味ある核を構築すること、薄塗りを重ねること、あるいはドリップを行うなど、絵具の微かな変量が作り出す表情は印象的である。また、それぞれの大きな絵は彼の芸術のテーマ、単一の色彩が支配する絵画への本質的な追求である。Green Imageは、グリーンの画面の中に精妙な関係を引き起こすきっかけとなる黄と白を持つ核を含んでいる。近藤は、色相に対するデザインと鋭敏な感性を力強く制御する抽象表現主義者である。

Beck氏は、好意的に近藤の作品を観ています。近藤が持っている習熟した絵画技法にも好感を抱いていると思われます。それは将来、美術史家としてイタリア ルネサンスを専門とする彼の個性とも関連しているように感じます。近藤を抽象表現主義者であると記述したことは、近藤の才能と取り組みを認めた上での励ましであったように感じます。また「単一の色彩が支配する絵画」「色相に対するデザインと鋭敏な感性を力強く制御」との指摘は、その後の近藤作品を見通しているようにも思えます。

森豪男 M&T KONDO美術財団 代表理事 武蔵野美術大学名誉教授

Green Image

近藤竜男からのメッセージ

5. 解放の時代

Gray Imageは1964年2月のニューヨーク日本橋画廊の近藤竜男展に展示されました。この展覧会に対する批評はART NEWS 1964年2月号のReviews and previews: New names this monthに掲載されました。この欄にはジャドを含む新人およそ50人の名前が記されています。本文にはWhat is Pop Art? があり、近藤も目を通した筈です。記事は二つのパートに分かれており、2月号はパート2、そしてパート1は三ヶ月前の1963年11月号に掲載されました。その内容は編集者で批評家であるG. R. Swenson氏の新鋭作家へのインタビューです。ジムダイン、リキテンスタイン、ウォーホルのように、前年のPasadena Art Museumにおける展覧会、New Paintings of Common Objectsに参加した三人と他の五人、計八人が彼の質問に答えています。この八人という数は、Common Objectsに参加した作家と同じ数です、おそらくこれはSwenson氏の、展覧会への敬意の表現です。6年後、彼は高速道走行中に事故に巻き込まれて35歳で亡くなります。28歳の近藤は1961年の夏、ニューヨークに到着します。そして同年秋にはリキテンスタインがレオキャステリにて最初の個展を開きます。このようなことへの俯瞰が示すのは、この時代の近藤は、ニューヨーク到着早々にアメリカンアートシーン変革の予兆を感じながらも、抽象表現主義を目にしながら、自らの絵に突入していった、ということです。そして、東京にいた時とは全く異なった絵を描きます。「開放の時代」とも言える伸びやかで速度があり、知的情熱を放射している絵です。1961年から63年の間に描かれました。Gray Imageもその中の一枚です。

森豪男 M&T KONDO美術財団 代表理事 武蔵野美術大学名誉教授

Gray Image

近藤竜男からのメッセージ

6. 近藤さんの笑顔

亡くなる一ヶ月前のこと、近藤さんの家を訪ねると、近藤さんはベッドに座って晴れやかな表情をしていた。こんにちは、お元気そうですね。うーん、いまいちだよ。といった定番やり取りの後、今日は話ができるぞ、と思ったぼくは矢継ぎ早に話しかけた。三鷹市美術ギャラリーのカタログを開き、依田さん一家の展覧会は素晴らしいです、展示も画期的で依田さんのあのロフトがそのまま三鷹に引っ越してきたようでした、三人とも元気で、近藤さんによろしくとのことでした、とページを繰った。近藤さんは懐かしそうに目を通した。洋一朗さんはまもなく50歳だそうですと言うと、ヘエーと愉快そうに笑った。次に、和歌山県立近代美術館から送られたニューヨーク アートシーンのカタログを開き、高松市美術館所蔵の近藤さんの作品Two Arces: N.86が掲載された見開き頁にくると、照れるような素振りと共に見入った。しばらくしてぼくは近藤さんに言った、近藤さん、また展覧会を開きましょう。すると近藤さんは眼を見開き真剣な顔付でぼくを見据えて、うん、と言ってうなずいた。

2019年9月28日の朝、武蔵野日赤病院の清潔な病室に近藤さんは寝ていた。近藤さん、と声をかけるが返事はない。無言で横たわる近藤さんは、43年前の1976年、初めて会った時と同じく精悍できりりとした顔をしていた。

近藤さんを紹介してくれたのは堂本尚郎さんだった。ある画廊で偶然会った折、3ヶ月のニューヨーク滞在計画を話し、誰か紹介して下さいとお願いした。尚郎さんは隣にいた三木富雄さんに、コンちゃんやろか、と問い、近藤さんは面倒見がいいですからと三木さんは応えた。尚郎さんは自分の名刺に、親戚の森豪男君、デザイナーです、どうぞよろしく頼みますと記し、近藤さんに会ったら渡すようにと言ってくれた。

その年の9月、ぼくは名刺を握りしめてパーク アベニューに面したホテルの前で近藤さんが現れるのを待っていた。来た、会ったことも写真を見たこともないが猛烈な速さでこちらに突進してくる男、ジーンズの長袖シャツを二の腕までまくり上げ眼光鋭く精悍な男が、やあ、君か、と爽やかな笑顔で声をかけてくれた。そして素早く僕の胸ポケットに小さく折った1ドル紙幣を入れた。もし拳銃を突きつけられたら両手を上げて絶対に抵抗するな、金のありかは手を上げたまま指先だけで示せ、絶対に自分で取って渡そうとするな、拳銃を取りだすのではないかと相手が誤解して撃たれてしまうかもしれないから、と忠告してくれた。この言葉を耳にした時、きのうのことが蘇った。JFKから路線バスでグランドセントラルのターミナルに着き、たった一人の乗客となったぼくがバスから降りようとした時、五、六人の黒人の少年に取り囲まれた。瞬間的にこれがこの街の現実なのだと理解した時、なぜかほほ笑みが浮かんだ。すると彼らもなぜか僕を餌食としないで道を開けてくれた。僕は昨日の経験と今の近藤さんの忠告で、この街の現代アートの図太さと鋭さの根源を理解した。この街の現代アートはこの街の現実を乗り越えようとするエネルギーそのものなのだと。そしてこの街で制作する芸術家の想像を絶する強靭な精神を心から尊敬した。そして腹の底からこの街に来てよかったと感じた。近藤さんは笑顔で君はいい時に来た、秋のシーズンが始まったところだよ、今日はアップタウンのギャラリー巡りをする、行こう、と嬉しそうな笑顔となりぼくもつられて笑顔を返した。

日赤の看護師さんが渡してくれたバインダーに挟んだ一枚の紙とHBの鉛筆。完成か否かは不明だったが、ぼくは写生を終えた絵を小さく折りたたんで上着の内ポケットに納めた。

森豪男

依田寿久さんからのメッセージ

ニューヨークの近藤竜男さん

近藤竜男さんと初めて知り合ったのは、1970年代の始めの頃だったと思います。

その頃の近藤さんのスタジオは、マンハッタンの30丁目辺りの4階建ての古い建物で、近藤さんは、2階をスタジオに改造して、制作と生活空間に当てていました。

当時、ニューヨークを舞台に活躍された日本人アーティストとして、岡田謙三さん、猪熊弦一郎さん、川端実さん、他がおられましたが、その内の猪熊さんが、日本に引き上げることになり、その送別会が、近藤さんのスタジオで開かれました。イサム ノグチさんを始めとする、古川吉重、石川勇さん、他のアーティストが参加し、若い者としては、私と家内の順子ぐらいであったように記憶しています。

その日初めて近藤さんのスタジオを見た私は、壁に掛っていた近藤さんの作品を興味深く、熱心に観ました。くすんだブルーに塗られた縦長のキャンバスの中央部分に2本の天蚕糸が上から下まで張られて、その糸には近藤さんの言うところの「繭玉」が通されており、繭玉が上下に動かせる仕組になっていました。

それからしばらくして、近藤さんと奥さんの美代子さんは、SoHoの中心、ウースター ストリートにロフトを見付けて引っ越しました。その広々としたスペースに1970年代から2001年に日本に引き上げるまで居られたので、私は数え切れない回数出入りしましたし、日本からの美術関係者の方々にも又、懐しい近藤さんのロフトに違いありません。
本格的にリノベーションされたスタジオは、まず通りに面した2/3のスペースを仕事場用に、そこから裏窓までのスペースが生活空間となっていて、台所、応接間があり、一番奥に、近藤さんのプライベートな部屋がありました。その部屋の壁には、近藤さんが長年、ニューヨークで買い集めたレコードのコレクションが、まるでレコード屋さんの棚のようにびっしりと納まっていました。
近藤さんのコレクションは、クラッシックからジャズまで、その巾の広さに驚かされたものです。

ところで先日、日本での展覧会開催のため、私や家内の古い作品をペインティングラックから引きずり出すことになりました。その作業中にカセットテープが、いっぱい入ったダンボールの箱が出てきました。なんと、昔、近藤さんが、私のためにダビングしてくださったジャズのカセットテープだったのです。マイルス ディビスを始め、セロニアス モンク、チャーリー パーカー、ベニー グッドマン、カウント ベイシー、ルイス アームストロング、近藤さんがアメリカに渡ったばかりの頃から親しかったオーネット コールマンなど。

私はジャズを聞きながら、仕事をするのを常としています、近藤さんが他界された今、近藤さんのカセットテープが生きています。

絵を描くこと、海外ニュースを送ること、そして、私と共にした会社務め、ただごとではない忙しい日々の中で、よいジャズの曲を選び出し、ダビングしてくれている近藤さんが想われます。

近藤さんありがとうございました。

依田寿久 12/9/2019

依田順子さんからのメッセージ

ニューヨークでの近藤竜男さん

ニューヨークでの近藤竜男さんは、何んでも相談できる兄みたいな存在でした。
近藤さんと私の主人、依田寿久は同じアンティーク レストレーションの会社で長期間一緒にアルバイトをしていました。会社での近藤さんについては面白いエピソードがありました。近藤さんが塗りの仕事をしていた際、前夜朝方まで熱中して絵を描いていたり、飲み会が長びいて、午前さまとなったときなど近藤さんの額が少しづつ低くなって、とうとう塗り終ったばかりのアンティークのテーブルを直撃、塗り直しを余儀なくされたのです。一度や二度ではなかったようです。

近藤さんのロフトは、SoHoの中心、Wooster Streetにありました。奥行きのあるスペースの入り口から約半分が近藤さんのスタジオで、その向こうがキッチンとダイニングルーム兼リヴィングルーム、そしてさらに奥には一段高くなっている畳の部屋と近藤さんのベッドルームがありました。
それらは、いっさい仕切りがなく、奥深い広々とした一つのスペースなのですが、その用途によってはっきりと区切られているように感じられたのが不思議でした。
リヴィングルーム辺りに畳と障子の純和風の中二階が奥さんの美代子さんのために造られていました。
私の息子、洋一朗が高校生の頃申しました。「これぞSoHoのロフトだね!」と。

私は、近藤さんからいろいろなことを習びました。特にお料理に関しては。例えばひらめの煮付け。「ひらめは、片面が煮えてもひっくり返さないんだよ。身が崩れるから。鍋を傾けて煮汁をすくってかけてやる。ゆっくりと何度もね。」もう一品、「かぼちゃを煮るときには水は使わない。酒だけで煮ると舌がとろけそうにおいしくできるよ!」

近藤さんは、私よりも8年も早い1961年に制作の場をニューヨークに移されています。渡米後しばらくはカラフルな抽象表現主義らしい仕事をされていたようですが、1980年代には近藤さんの仕事を特徴付ける絵画を確立されたようです。エアブラシによるモノトーンの作品がスタジオの壁にかかっており、その横長のモスグリーンの画面に対角線と対角線の両端を結ぶ孤による形が明度差によって浮び上って見える作品が印象に残っています。

又、美術手帖や芸術新潮などにニューヨークのアートシーンを書き続けておられた近藤さんの集大成とも言える本「ニューヨーク現代美術1960–1988」を憶えておられますか? どれほど多くの美術関係者がこの本を読まれ、この本から学び、参考にされたか知れません。私自身も又、この本から大いに勉強させてもらいましたし、今なおページをめくることたびたびです。

無限の可能性を追求するアーティスト近藤竜男さん、アーティストの立場から現代アートの理解者であり、ライターである近藤さんに敬意を表し、感謝いたします。

2019年8月6日 依田順子

近藤竜男からのメッセージ

9. 依田さんの作品によせて

陰のない暖色が流れるように画面を満たす依田順子さんの作品に初めて接したのは、もう十数年も前のことになる。当時、清々すがすがしい作品を前に、屈託のない彼女の人柄がより印象的だったのは、女性としての魅力の方が作品を上回っていたということになるのだろうか。

70年代末の或る日、彼女のスタジオを訪れてみると、一見グレー調の複雑なテクスチュアを持つ新作が所狭しとばかりに作り出されている。新たなアイディアを得て、一気に制作したのだろう。目を見張る思いで作品に近付いてみると、グレーを基調に赤、青、緑等に彩色された和紙が紙縒こよりのように、線状、帯状に織られ、コラージュ風に画面に貼られている。重なり合う和紙が、軽やかでありながら密度のある画面を作り出し、グレーの合間からこぼれ落ちるような色彩が美しかった。和紙という日本的素材を使用しながら、西欧に対して、「日本的」特質を殊更強調するわけではなく、かといって、新たな美術動向に我武者羅に挑戦しようというのでもない。ニューヨークにおける彼女自身の生活の内側から生れ出た、何の気負いもない作品群でありながら、そこには、旧作とは異なる自立した作家の息吹きが感じられるのであった。

やはり、ニューヨークのギャラリーは目ざとくて、リチャード スタンキビッツ、国吉康雄から、メアリー フランク、新進の立体作家スコット リヒター等をハンドルするザブリスキー ギャラリーは、79年、依田順子の作品に注目し、個展を開催するという熱の入れ様となった。好評であったニューヨークでのデビューの後、去年早々、パリのギャラリー ザブリスキーにおいて、その後の新作発表が行われ、今シーズンは、ニューヨークのブルックリン ミュージアム・コミュニティ ギャラリーや、ギャラリー インターナショナル52等が企画する展覧会において、彼女の作品は、主要な位置を占めている。

欧米での作品発表が活発な順子さんが、今度日本では渡米以来最初のを開催するという。ニューヨーク、パリにつぐ三回目の個展が故郷の四国だと聞いて、いかにも順子さんらしいな、という思いである。

近藤竜男
1986年6月25日(ニューヨーク在 画家)

  • 依田順子
    〈流れ(Floating)〉
  • 1984年
  • ペーパー コラージュ(40″×30″)
  • 1986年8月に、高松市のギャラリー細川に展示された

近藤竜男からのメッセージ

10. 近藤竜男の手紙-1

大変御無沙汰いたしました。ニューヨークもすっかり寒くなり、二三度パラパラと雪が降りました。

この所、個展は、ローシェンバーク、フォンタナ、マッキヤレリー、ミロー等の後、春の終りまでは面白い展覧会がつゞきます。しかし、僕の見たかぎりでは、づいぶん失望する展覧会もたくさんあります。スーラージュ、ザウキー、フォンタナ等も、あまりにキレイすぎると言ふか、商品のニオイがどうしても鼻につきます。スーラージュ、ザウキーはクーツギャラリー。フォンタナはマーサージャクソン、と言ふせいもあるかもしれませんが、、。

絵商がそのような絵を描かせるのか? 自分からそうなって行ったのか、あるいは僕の見かたが、あまりに画学生的なのか? 絵もある一面では商品にちがいないわけですが、、でも同じクーツギャラリーでもマッキヤレリーの個展は大変、感動しましたし、その同じ環境の中でもやはり良いものは良いと思いました。

モダンアートミュジアムは今、マチスとシャガールのステンドグラス(シャガールは写真をとってはいけないようなので、ミュジアムの知人に聞いてみて、良いようでしたら送ります)。又、グッゲンハイムが、アメリカの現代作家展。モダンアートミュジアムのシャガールの前に、コラージュ展(大変大きぼな展覧会で、ダダからピカソのコラージュ、ローシェンバーク、デュビュッフェ、ネーベルソン等、現代にいたるまでの異質の素材を使った作品をもうらしてありました)

実は、皆写真は、1ヶ月ぐらいも前から撮ってあるのですが、どうも貧乏ひまなしで、学校、アルバイト、制作の三本立。大変いそがしく、撮りっぱなしになってしまいました。作品の作家の名前をわすれてしまったり、、ついぼやぼやしている内に大変おくれてしまいました。今日取りあえづマチスだけ御送りします。明日、コラージュの写真をお送りします。もうトピックとしては少しおそいかもしれませんが、又なにかの機会に作品の写真が使えるかも知れませんから、、。

日本を発ってから半年。そろそろ、日本の事がぼけて来ました。アサヒジャーナルと週間朝日しか読まないで、しかも英語はわからないときているので、日本は不景気らしいぐらいの事しかわかりません。

川端先生は、あいかわらづハリキッテ制作していらっしゃいます。週に二回、ニュースクールと言う僕の行っている学校へ教えに行ってらっしゃり、後の時間は全部制作にあててらっしゃいます。絵描きが絵だけかいて生活していると言う事は大変うらやましく感じられますが、又、なかなか出来ない大変な事でしょう。

では又御手紙します。何かの機会がありましたら原稿の〆切日を御知らせ下さい。

乱筆乱文お許し下さい。

山崎省三様

芸術新潮の山崎さんは、僕が日本を発つ前に、生活費の事も考え、ニュースを送ることを提案して下さったんだ、と近藤は語っていた。

近藤竜男からのメッセージ

11. 近藤竜男の手紙-2

山崎様

1962年4月12日

ライトのドロウイング展とジオメトリック アブストラクション イン アメリカの寫眞を御送りいたします。
ライトのドロウイングは図面が大変うすく、なかなか、うまく写真に写りません。
ジオメトリック アブストラクション——の方は二枚だけ作家の名前をわすれてしまったのがありますが——会場写真としておきました。もし、御使用の折は適当におえらび下さい。

僕はこちらへ来て、ちょっと意外だった事は、アクションやネオダダ的な動きとは別にジオメトリック アブストラクションの持つ勢力の非常に大きいと言ふ事です。(もっとも表面はジオメトリックでも内には、表現主義的な要素がかなり強い作家が多いのですが)
今度の展覧会を見るとこう言ふ充実した展覧会とて展示出来るだけの物が30年間脈うって流れていると言ふ事。そして、その中から国際的な一流の若い作家がぞくぞくと生まれていると言ふ事は驚きです。

かれらがそれぞれの自分の立場でせい一ぱい頑張っていると言ふ事は、言いかえればつねに自分に対抗する抵抗体を自身に感じて仕事をしていると言ふ事。アクションで賣出しているベテラン作家もおそらく隣りを並んで走っているネオダダやジオメトリック アブストラクトの作家をいつも身に感じている事でしょう。

そこに日本の現代絵画の根なし草的な要素を感じます。
アメリカと言ふ国は傳統のない国ですがそれ故にいつのまにか現代の傳統のような物が出来て来ているような気がします。

この後、グッゲンハイムのレジエとタピエスの写真を御送りいたします。
レジエ等はカラーで面白い写真が出来ますが、、もし必要でしたら御知らせ下さい。お送りいたします。

ニューヨークも雷がなって早足で春がやって来ました。日本は今、櫻の頃ですね。ワシントンの櫻がすばらしいようですがどうもまだ花見に出かけるような気分にはなりません。
川端さんのベネチアの作品は出来上りもう送りました。この前の個展の作品をますます簡潔にした感じです。
どう言ふ評價がされるかと楽しみです。

では、又、お手紙いたします。

近藤竜男

近藤竜男からのメッセージ

12. 近藤竜男の手紙-3

山崎省三様

Nov. 28 ’62

御無沙汰いたしました。先日は原稿料の御送金有難うございました。
猪熊さんの個展及びシドニー ジヤニス ギャラリーにおけるニューリアリスト展の原稿御送りいたします。

ニューリアリスト展のメンバー(アメリカ)はここ1、2年、レオ キャステリー、グリーンギャラリー、マーサー ジャクソン等の、前衛がかったギャラリーから出た新人達です。平均年令30才ぐらいとかで、いまのニューヨークのもっとも若い動きの一つのようです。(もっともフランスから来た動きのようですが)ポスターの切ぬきで台所を作り、絵のうしろでラジオがなっていたり、新聞のマンガをそのまま大きくかくだい(印刷の網目まで書いてあり、二色〜3色の色がついている)したもの等々、

その趣旨はわかるし(少々わかりすぎるほど単純な感じ)面白くもありますが、それがイズムと言ふ事になるといかにも無理に生み出されたような感じがします。

カタログにはこれらの動きと同じ方向の仕事の例として、アントニオーニやアラン レネ等の映画を出していますが、そうなるとちょっと首をかしげたくなります。どうも映画の方が上のような事になりそうです。

日常生活のうつろさ、オートメーション化された生活を既製品その物をつかってさらけ出すのは良いけど、それだけでは問題を提出しただけで写真だって映画だって良いでは無いかと言ふ事になり、ちっとも新しくないのではないか。なんの事はない昔の写実絵画と同じおとし穴が待っているような気がします。

又、ゆっくり御手紙いたします。

近藤竜男からのメッセージ

13. 近藤竜男の手紙-4

山崎様

原稿同封いたします。アートニュースの出るのを待っていましたが、とてもまにあいそうもないので一応文書を作って見ました。とりあえづ御送りいたしますから、間違えがあるようでしたら後便で御連絡します。この問題はなかなかむつかしく結局はっきりした事はつかめません。結局ほとんどだれも知らないのではないかと思いますが——グッゲンハイムがカンヂンスキーを賣ったお金で新しい絵を買ふ事だけはたしかな事のようです。ミュジアムと言ふのはお金がすぐ出来るものではないそうで、たとえばメトロポリタンのレンブラントの場合にしても、これだけのお金まではあつめられると言ふ予測のもとにオークションで値を出すそうで、そのお金を集めるには時間がかかるのだそうです。今度のグッゲンハイムの場合も、お金が無いと言ふ事とは又違うようです。比較的急ぐ目的のためではないかとも考へられますが——ミュジアムモダンアートがあのようにハデに再出発した以上、現在建築物のみが賣ものみたいなグッゲンハイム美術館としては、充実した系統立ったコレクションを持ちたいと言ふ事になると思います。僕は絵かきなのでこの問題ちょっと焦点がぼけてしまいどうもうまく書けません。余分な事が多すぎるようでしたら適当に割愛して下さい。——どうもこの文自信がありませんので。
写真のネガはありますか? 一応適当に同封しておきます。署名原稿でもかまいません。 では又御便にてゆっくり御手紙します。

近藤竜男 May 28 1964

ネガ今みつかりませんので後便で御送りいたします。ヴァーホールの個展の会場ネガだけみつかりましたので同封しておきます。

何処でだったか、もう数ヶ月前、カンヂンスキーの作品が大量にグッゲンハイム美術館から賣出されると言ふ話を聞いていました。私がコレクターなら、ギョッとして、聞耳を立てるところなのでしょうが、カンヂンスキーはえらいとは思ってもあまり好きになれない私は、なんとなくその話を聞き過ごしてしまいました。この話がもしグッゲンハイム美術館で大量に新人の作品をコレクションすると言ふ事ででもあれば、日時を待たずにニューヨークの作家達は大変な関心を示し、夜ともなれば、ビレージのシダーバーなどでは、まづその話で持ち切りとなる事でしょう。私みたいにその可能性の無い者でも現金なもので聞耳を立てた事でしょう。しかし、このカンヂンスキーの話し、その後一度も耳にせぬままにすっかり忘れてしまいました。

数日前、芸術新潮の編集部よりこの件に関する手紙を受取りました。「グッゲンハイム美術館所蔵のカンヂンスキー50点を6月30日、サスビーのオークションに賣り出す事、(中略)約1億円に相当するこの賣立てによって美術館は何を企画しようとしているのか、(中略)この辺の事情を調べてほしい」と言った主旨のものです。これは私には無理です。とは思いましたが、〆切日も近く断る隙もなく、結局、聞いた事、わかった事、考へた事々らを羅列するより仕方のない結果となりそうです。後日「真相」が発表された時、かなりの食違いが生じても許していただきたいのです。

グッゲンハイム美術館と言えば、ライトの設計になる新館、國際コンクール等で今はすっかり有名ですが、ミュージアム ノン オブジェクティブ アートと言ふ名でその前身が東24番地54通り(今のミュージアムモダンアートの近く)に出来たのは1939年。当時ピカソ、クレー、ドロネー、シャガール等の作品を展示していたそうで、それ以後、文字通り展示されるものはノン オブジェクティブの作品に限られていたそうです。1952年、スイニーのグッゲンハイム入りでやや幅が出来、フィギュラティークな作品も展示されるようになったようですが、いづれにしても、前衛的姿勢と言ふ事が昔からのこの美術館の立前であり、又一方に、ライバル的存在であるミュージアムモダンアートを控えて、そう簡單に美術館の指向する方向を変えられるものとは考へられません。例のポップアートをバックアップしているのもグッゲンハイム美術館であり、又、最初にそれをミュジアムで取り上げたところでもあるわけです。

アメリカの現代美術のもっとも強力なバックアップを常にその姿勢として来たグッゲンハイム美術館は、アメリカにおいて開花したアブストラクトエックスプレションを強力に支持し、そして今、いかに批判の余地があるにせよ、ポップアートがアメリカの生んだ今一つの新しい動きである以上、それを支持すると言ふ事は、その美術館の性質上、又、パップアートの推進者の一人であるローレンス・アローエ氏が現在、グッゲンハイム美術館のキュレーターである事などから推察しても当然考へられる事と思います。昨年春にグッゲンハイム美術館で開かれた、ジャスパージョーンズ、ローシェンバーグにジム・ダイン、ヴァーホル、リヒテンシュテイン、ローゼンクイストのパップアーティストをくわえた Six Painters and the Object 展は、最上階のみによる展示でしたが、全館を使って大々的なパップアート展を開く事がキュレーター、アローエ氏の初めの企画であったそうです。キュレーター、アローエ氏のポップアート支持に対して、ディレクターのメッサ氏はやや反対の姿勢を取っていると言われますが、あまり内部に立入った事情については正確な事はわかりません。しかし、現在のグッゲンハイム美術館としては、パップアートをかなり強力に推進している事はほぼ確実な事と思います。そんなところからか「カンヂンスキーを賣ってパップアートを買うのだろう」と言ふ事が冗談ともなく話題にのぼるわけですが、パップアートの作品は概して大変安い上、グッゲンハイム自体は現在財政上のゆきづまりを見せているとはまづ考へられない事からも、ちょっとこの問題の対象にはならないように思われます。

「ニューヨークの作家は概してパップアートに反対の態度をとっている」或は「まあ、あれはたいして長くは續かないですよ」と言ったような事がポップアートについて、もうづいぶんと長いあいだ言われて来たのですが、しかし、そう言われながらも相変らづ大きな勢力を持っている事実は何か不思議な力を感じさせます。安くて良く賣れると言ふ事。今までの近代美術史上、一応新しい芸術運動と言ふ名で呼ばれたもので、少なくともその運動途上、しかも、初期の段階においてその作品が頻繁に賣れると言ふ事実はまったくなかったように思われます。それは、まるで「パップアート」と言ふ商品が独立してしまって、作家から或いはその運動からとは関係なく一人歩きしだしたような寄妙な印象を受けます。先月、ステイブルギャラリーで開かれたヴァーホルの個展では、木で作られた箱にシルクスクリーンで印刷された一見本物とまったく変らないBrillo(石鹸ダワシの商品名)の箱が50ヶほど積上げてありました。1ヶ250ドルとか? 300ドルとも聞きましたが、それが飛ぶように賣れたのだそうで、私が会場に居合わせた時も、ビニールの手袋をはめ、その箱を大事そうに4ツ、5ツ、とキャディラックに積みこんでいるのを見て、ポップアートを生んだアメリカ、そして、それを又脹れ上らせて行くアメリカ、それが結局は同じものなのか、それが何処にどうつながって行くのか当惑を感じました。

話がそれてしまいましたが、昨年の1月から4月にかけてグッゲンハイム美術館では大々的なカンヂンスキーの回顧展を開きました。世界各國から代表的な作品を集めた大変充実した展覧会でしたが、その油絵89点の内、26点はフランスに居るニナ カンヂンスキーから借受けたもので、グッゲンハイム美術館のコレクションからの出品は34点。又、水彩は34点中24点はニナ カンヂンスキーのもの、8点がグッゲンハイムのものでした。後はドイツ、アメリカ國内等から借受けた作品から成立っていました。そこで、ヨーロッパにカンヂンスキーが無いとは、ちょっと一概に言えないのでは無いかと思われます。カンヂンスキーの代表作と言われるものは、ほとんどニナ カンヂンスキーが所有しているとも言われますし、ドイツにもかなりのカンヂンスキーがあるはずです。ヨーロッパに作品を買ってもらうと言ふ事については、私はカタログを見ていないのでその点良く分かりませんが、ちょっと納得行きかねるような気もします。サスビーのオークションと言えばロンドンにある世界でももっとも大きなオークションの一つであり、グッゲンハイム美術館のアローエ氏がロンドンから来てる関係上あるいは、などとかんぐっては見たものの別にそんな関係はなくとも、これだけ大きな賣立てであればサスビーのオークションに出るのが筋合いなのだそうです。しかしこれだけ大きなオークションであれば、例えどこの國で開こうとも、コレクター、ミュジアム等が世界中からつめかけるわけで、そこでカンヂンスキーの作品がどこまでその価格を釣上げられるか、或いは場合によっては予想を下廻る事すら考へられるわけです。いづれにしてもそれらの作品は世界中のミュジアム、コレクター、等の手元へと散って行くと考へるのが妥当でしょう。しかしカンヂンスキーの作品がそう安かろうはづもないし、又、価格がかなり高く釣上げられて行くと言ふ事にでもなれば、案外作品は一番お金があるアメリカへかなり戻って来ると言ふ事も考へられます。グッゲンハイム美術館から一度出たカンヂンスキーの作品はヨーロッパオークションを通して、アメリカ全國にある多くのミュジアムやらコレクターの手元へ落着くものもかなりあるとも考へられます。

今度のオークションに賣出される作品はつまらない作品ばかりと言ふ事ではなく各エポックのかなり良い作品が含まれていると言われます。では、なぜカンヂンスキーを手放すかと言ふ事。そして、それでなにを企画しているのかと言ふ問題となるわけです。或いはカンヂンスキーの評価の変化と言ふ事も考へられるわけですが、もし、そのような事があるとすれば、アメリカ現代美術における輝かしいアブストラクトエックスプレションの評価自体も又変らざるを得ない事となり、現在、特にアメリカにおいてはちょっと考へられない事と思われます。グッゲンハイム美術館におけるパーマネントコレクションは、カンヂンスキーに関するかぎり膨大なものですが、他のものとなると、たとえばミュジアムモダンアートのような平均ししかも内容の充実したコレクションと言ふわけには行かないと思われます。今まで閉館していたミュジアムモダンアートでは、その膨大なコレクションにもかかわらづその多くは掛ける壁面がなく長いあいだ人目にふれづに倉庫に眠っていたわけですが、今度大々的な増築をおこない、5月の末より新たに開館しました。又、ホイットニーミュジアムも現在マジソンアベニュー75通りに新館建造の工事を進めています。そこで——と言ふわけなのかどうかはわからないのですが——。グッゲンハイム美術館としては、現在かたよっているコレクションの中よりもっとも多く所有しているカンヂンスキーを整理し、それによって得た資金によって現代美術を中心とした20世紀美術の充実したコレクションを完備すると言ふ事を考へているようです。

現在のグッゲンハイム美術館は企画展を開いている場合は、パーマネントコレクションを展示すべき壁面をほとんどもっていない事から、或いは新館増築と言ふような事も考へて見たのですが、今のところそのような話は無いようです。いづれにせよカンヂンスキー作品50点を賣上げたとすれば莫大な金額となり、これによって20世紀美術のコレクションを完備するとすれば、かなり充実した内容のものが得られる事が考へられます。グッゲンハイム美術館は今、ゴッホ展を開催していますがその代表作品がづらりと並んでいます。カンヂンスキーが有り過ぎる、コレクションの置き場がない、と、われわれには有りすぎる悩みなどはピンと来ませんが、このアメリカと言ふ國は、その國の豊かさが芸術作品への積極性と言ふ姿勢につながっている地点においては、まったく恵まれたうらやましい國です。

近藤竜男からのメッセージ

14. 近藤竜男の手紙-5

山崎省三様7月20日(1964年)

御手紙有難うございました。レコード代、原稿料の御送金、たしかに受取りました故東京より手紙がありました。有難うございました。

カンヂンスキーの分はどうも良いものが書けなかったのに、申訳ありません。カンヂンスキーに関しては正直に言って、どうも書きたくありませんでしたのでほっとしました。色々と御考慮下さり心から感謝いたしております。

ゴッホに関する件、なかなかむつかしいですが、なにか書けそうな気がします。結局はづいぶん大きな問題になってしまふのではないかと思ふのですが、自分でもまだ文章にするほど整理されていないし、僕はゴッホについてはさほどくわしくは知りません。ゴッホに感激したと言っても手放しでまいったわけではなく、現代美術とのかかわりあいにおいて——、現在のニューヨークと言ふ地点でなお意外に新鮮で強烈だった、と言ふ事に驚いたわけです。

その点で、山崎さんのおっしゃるように、ゴッホ展を一つの起点として見たニューヨーク画壇と言ふような見かたで書いたら面白いものが出来るかも知れないと思います。ゴッホ展はその後、タイトルを忘れましたが「ゴッホと印象派」とか言ふ新しい展覧会の形ちでサンマーシーズンの後半も續けられます。

そこでまったく無理な御願いで申訳ないのですが、もう一ヶ月時間をいただけませんか? 実は今月は、勝手な話ですが、バケーションで一昨日までニューヨークを離れていました。又、今週か来週には二川幸雄君(カメラマン)がヨーロッパから来る事になっており、どうもちょっと今月中には間に合わないような気がします。自分の勝手で誠に申訳ありませんが、お願い出来ますでしょうか?

今、気が附いたのですが、ホイットニーミュジアムで、ミュジアムのコレクションによるアメリカ現代美術展をやっているはづです。見ないとわかりませんが、それと、ゴッホ展を対比させると面白いかも知れません。では出来るだけ早く書くよう努力いたします。

近藤竜男

近藤竜男からのメッセージ

15. 近藤竜男の手紙-6

山崎省三様

いつも原稿がおくれ遅れになってしまい申訳ありません。この前の原稿の中で、ワールドフェアーの作家に関する件、ポップアートの作家の中のインディアーナを忘れていました。

又、ミユジアムモダンアートの「アイ、レスポンシブル」は、あるいはハードエッヂ等の作家も含まれるかもわかりませんが、なにしろ始まって見なければわかりません。今までに、ミユジアムでえらんだ作品は、チラチラ派の作品が多いようですが、——これは國際展の形ちをとるので、日本へも作品をセレクトしに行っていませんか? 日本でこの範ちゅうに入るのは、オノザトさんぐらいですか? 日本人では本当の意味で、この系譜に入る作家はほとんどいないのではないかと思います。若い作家でニューヨークにいる日本人には、そのような仕事をしている人もいますし、今度の事でミユジアムがピックアップする可能性もあるようです。

僕も大変作品が変りました。本来作品の変る事を僕自身は好まないのですが、それにもかゝわらづ、又、人一倍変るようです。この前の個展で、今までのものを出してしまった事が、一つの、新しいスタートともなったわけです。この事は又、今度の御手紙にでも書きます。

こんな作品で、まん中の所と両脇のキャンバスと3つにわかれています。眞中の長い所が又、それぞれ4ツとか5ツとか——独立した小さな絵が、つないであります。今度スライドでもお送りします。

近藤竜男(封筒に1964年9月の消印)

近藤竜男からのメッセージ

16. 近藤竜男の手紙-7

封筒にブルックリン局の1964年11月20日の消印

近藤竜男からのメッセージ

17. 終戦当時十二歳だつた僕は、

 終戦当時十二歳だつた僕は、毎日のように中島の飛行機工場へ吸込まれて行く爆弾を見ようと、口をあけたB29の弾倉を見つめていました。焼野原の東京や、死体を山ほど積んだトラックが何台も走つて行つた事。それらは正直な所、恐ろしいと言ふ形ちでよりは、づつと前に見た映画の印象的なシーンだけが今でも頭の中に焼きついていると言つた感じです。戦後の食料難も、こんなものだとしか思つていなかつたし、高校の時までお酒とは焼酎の事だと思つていました。それが『当たり前』だつた僕には、今になつて、恐ろしかつた、つらかつたと言葉に出してしまう時、はづかしいやうな気がします。どちらかと言えば戦後の環境の中で育つた僕達は、"戦争"の現実を大人の目で体験した人達とは、又違つたジエネレーシヨンなのだと思ひます。

 かと言つて、なにも開けつ放しにオプチミステイツクなわけではありません。人間自身が作りだしたメカニズムに脅やかされながらしかも思い出も夢も無い僕達は、現実に対してはむしろ敏感かも知れません。

 そして、それらがやがてタブローとなる時、なにも大げさな身振りをしなくても、現実に生きている人間として、必然的に出て来たもの、画かづにいられなかつたものを、もつとも適切に表現出来ると思つた形で画面に定着すれば良いのだし、その結果が抽象でも、又具象であつても良いのだらうと思ひます。

 本質的にはグロテスクな現実。それをもつ、明るい形ちで、(あまりパトスによりかゝり過ぎないやうに)表現して、なを、その本質が画面の上に出て来ればと思つています。

 澄切つた青空が、より無気味に見えるやうな。

近藤竜男 サトウ画廊月報第5号(1956年2月1日発行)に掲載。

近藤はサトウ画廊の運営を託されていた馬場彬と東京芸大の同期であり親友だった。近藤の手元には馬場からの私信101通が残されていた。2002年、練馬区立美術館の近藤竜男展のカタログ、最初の図版は二年前に没した馬場への追慕の作品「馬場彬へのオマージュ」2001年制作であった。当デジタルアーカイヴの「手紙」には、1976年2月3日3月1910月29日に「馬場君がニューヨークに来る事になり、、」などが記されている。

  • 〈周期〉
  • 1955年
  • 油彩・カンヴァス
  • 161.5x130cm
  • 1956年2月 サトウ画廊「第1回近藤竜男個展」出品

近藤竜男からのメッセージ

18. 近頃の事

 ゑのぐが買えなければ絵が画けないので就職した。——いわば作品を作るための手段として。そしてその“手段”のために“生活”の時間のほとんどを費してしまう。しかも、そのあいだは絵に関する事と女性からは完全に隔離されてしまうとは。

 十字架の前を通り過ぎて門を入ると、真黒い衣をつけた神父様がいらつしやる。にこやかに微笑、々々。教室からは教会が見え、生徒は全部男の子。と言つても高校生。「烏口の使いかたは」、「明朝体とは」等々、それが終ると野球部の部長てな事になる。そのあわただしさの中で、今のところ、ここに生活している自分を、作家としての立場から見つめる事だけで精一杯だ。

 だれでも、ぬるま湯に入つたばかりの内は、“今入つているのだ”と、又それが何の目的のために入つたかと言う自覚は十分持つているはずだ。ところが、やがて時間がたつにつれて、体温に近い液体にすつかりなれてしまい、その中に入らなければならなかつた必然性や、ぬるま湯の外がわと、ぬるま湯の中の自分との関係に対する意識は、しだいに薄れてしまう。ついには小さな風呂桶の中だけがすべての世界になつてしまい、その中における自分しか見えなくなつてしまう。——と言うよりは、自個自身を喪失して行くのではないか。どうやら僕も、ぬるま湯の中のあわただしさ、そしていごこちの良さにひたりかけているようだ。目をつぶらぬよう、外と、自分を見つめながら、それを抵抗として受止めなければ。

 でなかつたら、そこは逃避のための安全地帯だから。

近藤竜男 サトウ画廊月報第16号(1957年1月1日発行)に掲載。

〈周期〉, 1955年, 油彩・カンヴァス, 130.0×161.5cm, 1956年2月 サトウ画廊「第1回近藤竜男個展」出品
  • 〈周期〉
  • 1955年
  • 油彩・カンヴァス
  • 130.0×161.5cm
  • 1956年2月 サトウ画廊「第1回近藤竜男個展」出品
会場にて〈周期〉と近藤竜男 22歳
  • 会場にて〈周期〉と近藤竜男 22歳

近藤竜男からのメッセージ

19. 雑感

 個展の作品を選びながら、ずいぶん早く一年がたったものだと、毎年の事ながらつくづく思いました。

 アンホルメールだ、人工衛星だと、我々に非常に魅力的でしかもショッキングな事柄、それらが、多角的に、しかも短いあいだに、僕達の前に追掛るように現れました。

 かつては世紀の歳月を要して発展したゞろう事柄は、今では、一年間のアッと言う間にすぎてしまいます。

 前向きに、すさまじい勢で進んでいる現実は、過去をかえり見ながら、かつてこうであったから、今度もこうなるはづだ、などとは言わせなくなってしまいました。

 どうやら、産業革命以後は、歴史の逆行性と言ふ事はなくなってしまったようです。歴史家にとっては大変な事なのでしょうが。我々とて、ぼんやりしている内においてきぼりを食って、とんでもない時代錯誤をしかねません。

 僕達は、少なくとも現代人としての、最低の必要として、その時代について行かなければならないし、その現実を、はっきりと認識した上でこそ、その中における自分と言ふものを、客観的な立場で見つめる事が出来るのだと思います。

 しかし、あまりに華かであり、流行的にすら見えるそれらの事柄を——、たゞ流行としての真新しさとしてしか受取らなかったとしたら、作家が、もっとも自己を見失いがちな状態でもあると言えます。

 現実の烈しいうつりかわり、私達は、それをあまりにジャーナリステックな、又、表面的な事柄としてとらわれすぎ、その本質を見失ってはならないと思います。

 現実を、体験を、しっかりふまえた上で、しかも僕の中から出て来る、本質的なものを、じっくり見つめたいと思います。

近藤竜男 サトウ画廊月報第29号(1958年2月1日発行)に掲載

〈周期〉, 1955年, 油彩・カンヴァス, 130.0×161.5cm, 1956年2月 サトウ画廊「第1回近藤竜男個展」出品
  • 〈機構A〉
  • 1957年
  • 油彩・カンヴァス
  • 241.0×182.2cm
  • 第9回読売アンデパンダン展(1957年3月1日〜17日/東京都美術館)出品

近藤竜男からのメッセージ

20. ÉPOQUE ART

 1954年9月28日~10月3日、名古屋の丸善で開いたÉPOQUE ARTが近藤の最初の展覧会である。参加者に目を通すと、生涯画家として活躍された方々の名前を見ることができる。若い彼らの芸術に対する真摯な意志が案内状に印刷された作家名と作品タイトルに、そして案内状のデザインと展覧会名にくっきりと表現されている。彼等の旅立ちに対して川端実は次のような賛をはなむけとして贈った。

 こゝに紹介する若い人達は、現代に課せられたメカニズムとヒューマニズムの問題に、生活を通じて眞剣に立ち向つている人達である。

 彼等は力強く新しいものへの欲求烈しく常に大きな場の上に立つて仕事をしようとしている。各人が製作にあくまで實驗的態度でのぞんでいることは好ましいことである。この様な若い世代の人達の仕事に私は伸びのびとした溌剌たるものを感じるのである。

川端 実

近藤竜男からのメッセージ

21. 第1回 ÉPOQUE ART 油絵展

 1954年、名古屋の丸善で開いたÉPOQUE ART 展の翌年、同一メンバー六名、岡本健彦 片山和子 加藤秀雄 桑畑義博 近藤龍男 清水俊子は、第1回 ÉPOQUE ART 油絵展 を銀座松屋で開催した。以下、目録と近藤の出品作7点中の2点を掲載。

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