Feb. 24. 1980

1980.2.24

山崎省三様
 新年にはお年賀状を有難とうございました。
 中国へいらしたそうで、僕達も旅をしたいと思いますが、なんとなくニューヨークに立てこもってしまい、まだヨーロッパにも行っていないといった変則的な生活です。アメリカでも中国旅行がこゝのところ俄かに盛かんになって来ましたが、アメリカにいて中国という時と、日本から中国という時では、同じ中国でありながら まるで違ったニュアンスに感じられます。アメリカは、シルク・ロードなどにはつなががらなく、中国難民のたどり着く国です。僕の働いている所は中国人も多いのですが 文化大革命以後の中国からの脱出組、(彼らの脱出ルートによって、「山越え」とか、「海越え」などと仇名をつけています)も3人程います。一方台湾組は、一番英語もしゃべれて気がきいているのですが、中国人同士になると一段低く見られるらしく 独立を口にするのも無理からぬ背景があるようで、オリンピックの国旗問題などになると彼等は一段とエキサイトします。戦後以来の中国本土脱出組は皆、パスポートがないわけで、国が無い、という事がどういうことか、彼等を見ていて始めてわかりました。先週は正月で チャイナ・タウンは賑やかでした。
 暖冬だといっても今年の冬のようなことは始めてゞ、ろくに雪も降らずに、すでに春の気配です。
 ニューヨークの美術界、グッゲンハイム・ミユジアムでは、ボイスの後にイギリス現代美術展、その後がスペインで、日本の現代美術はニューヨークで見るかぎり、国際的循環のルートから、完全に姿を消したようです。日本は不思議な国で あらためて世界地図を眺めて見ると、文化に関しては鎖国をしようと思えば いつでも出来る国で、国内だけでの美術操作が可能な地理的条件が備わった国なのだなと、つくずく感じます。美術界の国際性などは自分が望まなければ何時でも切れる国で、やはり非常に希な特殊文化を形作っていると思います。悪いというのではなく、大変面白いと思います。たとえばニューヨークだと、いくら四方に壁をめぐらしたところで、ヨーロッパとは目と鼻で、作家もディーラーも、コレクターも、四六時中出入りするのですから、ニューヨークの美術界が、いくらナショナリスティックになったといっても基本的には インター・ナショナルな次元の真表に晒されていることにはかわりはないのです。音楽だけは、日本は現実的需要が大きいから国際マーケットの循環のたゞ中にいるといえるし、だから、日本の演奏家が、デビュー出来るのです。
 デビット・スミスに続いてポロック、ニューマン、のドローイング展が今開かれています。出すものは出尽して、これからは、ドローイング全作品展といったような企画がしばらく続くことでしょう。ニューヨークでは、今、イサム・ノグチさん75歳の記念展ということで画廊と美術館が一度に展覧会を開いています。ホイットニー ミユジアムとしては、はじめ、78年にミネアポリスのウォーカー・センターが企画し、アメリカ国内を巡回した「Noguchi’s Imaginary Landscapes」という大規模な展覧会を持って来たかったようですが実現出来ず、結果として今度の展覧会となったようです。企画としては、比較的急に決ったものではないかと思います。ノグチさんはこの頃めっきり弱った感じですが、荒川君など口の悪い人にいわせれば、「イサム・ノグチはもう何時―かわからない状態だから こうやって画廊やミユジアムが一度に展覧会をやるのだよ」などといいますが、ペース・ギャラリーとのあいだにアンドレ・エミリック・ギャラリーが割り込んで来るところなどは、なんとか今のうちに取得権を、といった感じがないわけではありません。荒川君は昨年 ミネアポリスで個展を開いたばかりなので、話になんとなくリアリティーがないわけではありません。直る病ではないし、これから先き10年というようなことは考えられないことだけは事実でしょう。アメリカでは、自国の現存作家中、もっとも主要な作家という考へが近年とみに強くなったようですが、(四国でやっている石の彫刻の近作などは余興のようなもので、これは画廊があつかいます)30年代から現在に至るまでの<空間(環境的)の彫刻>という廣い視野の上に立った世界的な先駆者という意味合からでしょう。日本などに渡すものか、というのがアメリカ側の立場でしょうが、日本側は、その点もっと、のんびりとしているようです。
 僕の日本での作品発表のこと、お心遣い下さり有難とうございます。
 本当は昨年帰国しました時、もう少し深くお話ししたい気持はありましたが、あの時点では、とても切り出せない気持の方が強く、どなたとも具体的な話はせずにニューヨークに戻りました。「志水楠男と作家達」展を開き(宇佐見君からの手紙で ドローイングは前田常作さんが買って下さったそうですが、他の小品は、僕や東野さんを良く知っておられる方、というだけで、未だにどなたが買って下さったのかわかりません。) その後、南画廊から正式に画廊を閉める通知がありましたので、一つの区切りがつき、新年も明けてから、東京画廊と南天子画廊に手紙を書きました。色々と考へれば考へるほど、だんだんむつかしくなって、どうして良いか、どのように手紙を書いて良いのかわからなくなってしまうのですが、結論としては、東京画廊には71年展で出品させていたゞいているし、南の個展も主要作品は東京画廊で買って下さっているということもあり、最初に東京画廊へ手紙を書く事にいたしました。同時に そのような成り行きを記して青木さんへもお手紙を書きました。今は東京―南天子はツーカーでしょうから、青木さんには、ありのまゝを記しましたが、東京画廊がだめだったら南天子、といったニュアンスになってしまったことは仕方ありませんでした。折り返し、東京画廊の石井さん(15年程前だったか、ニューヨークに見え、以来親しい)より、お手紙があり、現在皆で検討中であるが、自分としては 来年のスケジュールに組入れたいと思っているとのことで、二月にヨーロッパへ行った時、ニューヨークへ足を延ばし、話し合いましょうとのことでした。その後もう一度お便りがあり、三月末か四月、アメリカへ行く仕事が出来たので、二月のヨーロッパは、まっすぐ帰国し、あらためて渡米するので、それまで待って下さいとのことです。今のところ、それ以上の発展はありませんが、石井さんがニューヨークへ見えた時 具体的にどういう事になるかわかると思います。三月末には斎藤義重さんもニューヨークにいらっしゃるし。僕が手紙を書いたのが、一月に入ってからで、最初から、今年はもうどこの画廊もスケジュールが出来ているだろうから、来年、東京で作品発表を持ちたいというように記しました。来年で南の個展から7年目になります。あまり、あちこちに話を持ち掛けてもいけないと思い、今のところ この二つの画廊に絞っていますが、この話し、うまく煮詰ってくれゝばと願っております。よろしくお願い申し上げます。
 お便りにございました「アメリカ美術激動の二十年の中で」今、真剣に考へています。たゞ、もう長いこと日本で作品発表をおこなっていないので、やはり個展を開いて自分の立場をはっきりした上でにしたいという気持に変りはありません。とはいえ、こういう事には やはり時期があると思いますので、来年か再来年にはまとめたいと思っています。来年4月の末でちょうどニューヨーク20年、再来年は、ポップ・アート台頭以来20年、それを過ぎると時期的に間が抜けるように思います。個展の話が具体的に進めば、個展から、そう遅れない頃というようにも思い、それには、生活体系も変えねばならず、むしろ 良き区切りになるかなとも思っています。今迄の生活では なんとなく日々に追われて時間が取れず、あせるばかりで、歳月が過ぎてしまいます。絵の作品発表さえ軌道に乗れば、時期を見て今まで取りためた写眞で、「アメリカ現代美術の20年」のフォトエッセイ的写眞展も出来るかな? カタログ的に本にしても良いし、——などと、アイディアはあるのですが、絵の発表もせずにこういったよそ事を先にやる気にはなれません。
 堀ノ内のアトリエ、今まで三菱重工の社宅として貸していましたが、その人が今度出ますので、(そのまゝ同社の社宅として入る人がいれば良いのですが) そうでない場合は、その後を決めるために4月頃短期帰国しなければならないかも知れません。日本の家屋は居住権が強いので、個人契約で、後で居住権や営業権(アトリエ等の場合)を主張されると、どうしようもなく、安全を考へると 社宅とか、身許のしっかりした外人ということになるようです。これはまだ、まったくスケジュールが立ちませんが、もし帰国しなければならない場合は、「アメリカ美術・・・」の件煮詰めたいと考へております。個展と両方うまくゆけば良いのですが、その折は、何分よろしくお願い申し上げます。
 今は何事も総てがちゅうぶらりんで、なんとなくいろいろしながら待つより仕方のない毎日です。又何か具体化いたしましたらお手紙いたします。
斎藤様 お元気でいらっしゃいますか? ちっとも良いレコードが出なくて僕のせいではないのですが、なにか申訳ないような気持です。
 末筆ながら、芸新の皆様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ。
近藤竜男
追伸、 うちの女房からのお願い事で恐縮なのですが、長らくお送り頂いていた小説新潮が1月号より着かないのだそうで、続けてお送り願えないだろうかというのですが。—— もともと斎藤様の御好意でお送り下さっていた本で、ロクなレコードも出ない昨今では無理なお願い事なのだというのですが、いさゝか不満げです。—— もし、今後も続けてお送り願う我が儘が許されますのなら、かなり厚かましいお願い事で恐縮なのですが、出来ますことならお願い申し上げます。どうもすみません。

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